
前編は湊川神社に始まり、能福寺の兵庫大仏まででした。
この後編は、能福寺を出た所から長田神社迄です↓
能福寺(14:21)=門口公園=久遠寺=福厳寺=津の道の庭=福海寺(14:39)=
柳原蛭子神社=八王寺=生田神社兵庫宮(15:00)=神港橘高等学校=新湊川=
長田神社(15:48~16:00)
門口公園周辺に8歳から40歳を超えるまで住んでいました。
過去の史実も調査して、詳しく紹介していきます。
能福寺を出て国道2号線へ向かうと、六甲山系の一部が見えてくる(14:21)。

阪神高速を潜る形で2号線を渡り、

少し行くと、右手に公園が見えて来る(中央に立つ電波塔はあとで説明します)。



野菜販売店に、貸本屋でした。遊んでいたのは、広いお寺の境内で、
説教話も良く聞きに行っていました。
最後まで聞いていると、お菓子が貰えますので^^;
門口公園は旧街道とその後の道が交差していて、直角三角形の形になっている。
私が神戸市北区へ転居後に公園となり、阪神大震災後には仮設テントが並んでいた。
周辺に老朽化した木造住宅が多くあり、かなりのダメージを受けていたようです。
木造住宅は減少し、現在は鉄骨3階建てやマンションが増えています。
門口公園を調べると、日本1000公園の909番目に挙げられていて、驚くいた!
909/1000 門口公園(神戸市兵庫区)-日本1000公園 (nippon1000parks.blogspot.com)
https://nippon1000parks.blogspot.com/2015/01/9091000.html
三川口町と門口町が混在する地域で、
古い地名を残す為、名称を門口公園にしたのだと思う。
この裏側に、墓地を多く抱える法華宗本門流の久遠寺があります。

門口公園を左に、西へ行くと、


織田信長のもとで摂津の大名となった荒木村重が信長に反して没落したあと,1580年(天正8)村重討伐に功があった池田恒興に摂津の〈諸所多く〉とともに,兵庫津が与えられた。恒興は兵庫の地に一城を構え,城の周りに溝渠(注↓)を,町の外郭に惣構(注↓)の都賀堤を築いた。近世にはこの都賀堤に囲まれた内側の町場が地子方(じしかた),外方が兵庫地方(ひょうごじかた)といわれた。
柱)溝渠(こうきょ、英語:ditch)とは、主に給排水を目的として造られる水路のうち、小規模な溝状のものの総称。
柱)惣構(そうがまえ)とは、城や砦の外郭(がいかく)、またはその囲まれた内部のこと。特に、城のほか城下町一帯も含めて外周を堀や石垣、土塁で囲い込んだ、日本の城郭構造をいう。
総構(そうがまえ)と同じ事で、総曲輪(そうぐるわ)、総郭(そうぐるわ)ともいう。
平たく言うと防御施設のこと。
上記、兵庫津(ひょうごのつ)とは↓
奈良時代には大輪田泊(おおわだのとまり)と呼ばれ,12世紀中ごろには平清盛による大規模な修築が行われた。鎌倉時代に入ると兵庫津と名が変わり,清盛の築造した経ヶ島を中心に町が形成された。応仁の乱で町は一時衰退するが,江戸時代に西廻航路が発達すると再び隆盛に向かい,幕末の開港まで海上交通の要衝として繁栄した。
ここで出て来た平清盛と大輪田泊の関係について↓
兵庫港の基礎を築いたのが平清盛(1118 年~1181 年)で、清盛は日宋貿易を行える京に近い貿易港を確保しようと早くから大輪田泊と福原に着目していた。 清盛は大型船が着岸できるよう「大輪田泊」を改修し、博多に代わって宋船を畿内に導き入港させれば、貿易による大きな富を独占できると考えた。そのため、瀬戸内海航路の整備を行う。その中間点「安芸の宮島」にある難所 『音戸(おんど)の瀬戸』を開削した。
最終港「大輪田泊」は南東風に弱く、停泊中の諸船がしばしば難破していた。その高波の防波・防風を目的として、清盛は1161年より私費を投じ、大輪田泊の大規模な改修工事を行った。これが『経ヶ島(きょうがしま)』で、その人工島は甲子園球場の約25倍と言われる推定面積 37ha。これが承安 3年(1173年)に一旦竣工する。
しかしこの工事全体を完成させることができず、清盛は国家事業による改修を願い出る。
これが許可されたのは清盛が死去する前年、治承4年(1180)2月の事。
その三ヶ月後には、以仁王の謀反が元で、源平の争乱が始まり、
治承5年(1181年)、清盛の死により工事は一時中断した。
清盛が完工を見ることができなかった経ヶ島築造工事だが、
最終的には平家政権滅亡後、工事の再開を許された東大寺の大仏勧進僧重源によって建久7年(1196年)、国営工事として完成したとされている。
この人工島の構築により「大輪田泊」は大型船の停泊を可能にしただけでなく、
多くの船の避難所にもなった。
その後、兵庫津、兵庫港として発展したが、度々埋立て整備が行われ、
経ヶ島は陸地となり、この詳しい場所は不明という事です。
長々と書きましたが、
兵庫津ミュージアムが一部完成したので、後日また詳しく説明したいと思います。
この都賀堤が書かれた看板は寺の外壁にあるが、
その寺は臨済宗南禅寺派の仏教寺院「福厳寺」です。

奥にある丸い建物が、阪神淡路大震災後、再建された鉄筋コンクリート製の本堂。
赤松則村(円心)父子、楠木正成と部下七千騎を出迎えた寺として知られるが、
こんな所でと思ってしまう。
境内には塔頭二ヶ寺、起雲庵、常牧庵があったが、 明治後合併廃寺されて、名目上方丈〔内殿〕は起雲庵と言う事になった。

その先、「津の道の庭」と書かれた小さな公園がある。

これを右折すると柳原えびすへと繋がる。
前編で紹介した折れ曲った西国街道が西へ向かう道になる。

美味しいんですけど、寿司とうどんのパックなんて関東にあるのでしょうか?




その左前方にあるのが、柳原蛭子(やなぎはらひるこ)神社ですが、


それが4日後に迫っているので、急ピッチで工事が進められていた。


福海寺は臨済宗南禅寺派、諸山の格式を持つ寺で、
足利尊氏が創建した事で知られる。

ここで御詠歌を詠んでいます。
1344年(康永3年)に足利尊氏が在庵圓有(現在の兵庫県御津町室津の出身)を京都西賀茂の正伝寺(諸山)より招聘して創建し、足利義満はじめ足利歴代将軍に尊崇された。
福海寺に大黒天が祀られているのも足利氏の大黒天信仰がある。
大国主の子孫、賀茂氏と福海寺が深く関係のあった事にも由来すると言われる。
足利氏発祥の地、栃木県足利市の鑁阿寺にも大黒天が祀られています。
もう一つ思い出に残っているのは、ここで映画上映が何度か行なわれた事。

名を挙げた長治さん関連で開催された無料の映画祭りです。
夏休み期間中の開催で、家から団扇と座布団を持参して、境内に座り、
鑑賞したのは、美空ひばりの時代劇や江利チエミの現代劇でした。
そのカラー映像が蘇る。
私が小・中学生の頃の話です^^;

福海寺を出て、
柳原蛭子(やなぎわらひるこ)神社へ。

ここに、兵庫七福神の恵比寿様が祭られています。
七福神巡りのスタンプ帳が置かれているので、自由にお持ち帰り下さい。

スタートは、南にある地下鉄和田岬駅近くの和田神社(弁財天)で、
ゴールはこの道路向かいの福海寺(大黒天)になる。
歩いて、巡って、2時間ほどでしょうか。
近隣の方、お散歩がてら(寺)にどうでしょう

ここで追記
前編にある兵庫七福神めぐりのご案内を此方にも↓
史跡和田岬砲台と兵庫七福神めぐり(2019.03.14・木)
https://arukuno.seesaa.net/article/201903article_2.html
西側の鳥居を出て、

北へ向かうと、
JRの高架がある。

曹洞宗の仏教寺院、八王寺です。


ここに精巧な北前船が置かれているが、


高田屋嘉兵衛と平清盛ゆかりの地をめぐる(2018.12.05・水): アルクノのブログ (webry.info)
https://arukuno.seesaa.net/article/201812article_2.html
から転載した写真です。
この八王寺は慶応3年(1867年)12月、山田村(現在神戸市北区)にあった無住の福昌寺を移すという形で建立し、最初は福昌寺と称した。
昭和20年3月戦火に遭い、昭和27年(1952年)八王寺と改める。
昭和44年(1969年)1月、青少年教化研修センター般若林道場を開設して建替え、
現在は「剣道のお寺」として親しまれています。
ここに、日本遺産認定の関連史跡があります。
戻って、御旅筋と言われていた所を北へ。

北側に進むと、国道2号線と並行に走る28号線があり、
それと接する所に御旅公園。



ここで15日にとんど祭りが実施される。

注連縄やしめ飾りを持ち寄って燃やす日火祭りの事です。
小正月の15日に実施されるが、関東では7日を過ぎた土・日が多い。
また電波塔が出てきたが、この先で説明します。
ここも初詣として賑わう所です。

この兵庫宮御旅所は、
明治32年4月、本社(三宮にある生田神社)より天照皇大神宮社を奉遷し、
兵庫一円の守護神として祀られた。
昭和20年、戦災により社殿などが焼失。御神体は事前に遷座をして安泰であり、昭和27年2月、現在の御鎮座地である兵庫区大開通6丁目に社殿が完成し、お祀りされました。

国道28号を渡って、


この地域のランドマークタワーになっています。
大開通りとも呼ばれるこの道路を東へ行くと新開地駅がある。
その向うは多聞通と呼ばれ、この前編のスタート湊川神社前まで続く広い道です。
さらに北上すると、また広い道路に接する。

その上が湊川公園。下には神戸電鉄・湊川駅があり、
その南が新開地商店街で、新開地駅へと続く。
この道路を渡って、左(西)へ向かう。

それでは面白くないので、ここを折れて山側へ




神港橘高校になる。


端っこ迄行くと、住宅の前を左へ降りる小径がある。


この小径に入るのがポイントでして、
行くと短い下り階段があり、



これは一帯、何?


新湊川の起点は以前に紹介しているが、天王谷川と石井川が合流した所です。
新開地商店街~湊川商店街~東山市場と、北上すれば辿り着く起点です。
旧湊川は、その筋を下っていました。
新湊川の起点から幅10m、深さ10mの巨大な側溝の形で流れています。

この川添いを下流側へ。
この新湊川、所々で川縁へ降りられるようになっていて、

上流が増水時はサイレンが鳴るので、入ってはいけませんが、
会下山裾野の傾斜を利用して、川は徐々に下って行く。
その先、三六橋の上から下流側を眺めると赤い橋が見えるが、

川の流れは、まだ緩やかに下っています。

赤い橋が近付いてきた所で、スケーボーを操る少女二人が、



赤い橋は長田橋で、



少し行くと分岐があり、これが長田神社への道。

突き当りが長田神社で、初詣とあるがガラガラ(15:48)。


これが湊川神社と違うところ。
神門の前には一人だけ。


神門をくぐり、




狛犬さん、日本酒にビールがいける口なんですか



中を覗くと、人影が見えて、読経が響き渡って、

長田神社は、
廣田神社・生田神社とともに神功皇后以来の歴史を持つ名社とされる。
そして、生田神社・湊川神社とともに神戸を代表する神社で、
神戸で三社参りと言えば、生田神社・湊川神社・長田神社のこと。
ただ湊川神社の歴史は浅く、明治天皇が大楠公(楠木正成)を祀る神社を創建するよう命じたもので、1872年(明治5年)の創建です。
主祭神となった、楠木正成がどのような人物であったのかは前編で述べています。
長田神社の主祭神は事代主神(ことしろぬしのかみ)で、日本神話に登場する神様。
『古事記』では、大国主神と神屋楯比売命との間に生まれたとされる。
この事代主神は『えびす様』とも呼ばれ、『福の神』として信仰されています。
でも、えびす様=事代主神ではない。
えびす宮総本社の西宮神社は事代主神ではなく蛭児神(蛭子神のこと)社の一つと数えられている。柳原蛭子(やなぎわらひるこ)神社も同じ流れです。
えびす様ですから、開運招福、商売繁盛、厄除け・・とご利益山盛り^^)
そのご利益には大漁豊漁も加わり、ここに漁港があったことが伺える。
長田神社の歴史は古く、『日本書紀』によると、神功皇后摂政元年(201年)2月、神功皇后が三韓征服後、新羅から難波に帰還する途中、武庫の水門(現在の駒ケ林あたり)で船が進まなくなったので占ったところ、事代主の神より「吾を長田国に祀れ」と神託を受け、創祀されたという。この由緒から、平成13年(2001年)には鎮座1800年を祝った。
太古から長田神社と呼ばれていたとあります。
末社が様々祀られているが、長くなるので省きます。
神社前にある欅(ケヤキ)の巨木は以前紹介したので、
今回は境内にあるクスノキの巨木を紹介します。


三が日にこれを撮影しようとすると、画面が人で一杯になる^^;
これが珍しいのは、左右の根っこが繋がっている事


説明板の向こう側から撮影するとこのようになり、


このような楠の巨木を見た事があるでしょうか

こちら側から左の楠。




最後にお御籤モニュメントを撮影して


長田商店街を真っ直ぐ下ると、長田橋を過ぎて、大きな鳥居があり、
そこが地下鉄への入り口になります。

神社境内では頂く場所が無かったので、


次回は2月1日、「箕面大滝から勝尾寺」を投稿する予定。
今後も1日、11日、21日に更新していく予定ですので、宜しくお願いします

長文記事を最後までご覧頂き、ありがとうございました

この記事へのコメント
がにちゃん
ニッ と笑っているような可愛いお顔の狛犬さん
ほんと酔っぱらってるんじゃ・・・(笑)
そぉ~っと てをつないでいる楠さん
初々しい カップルさん
神社巡りの中 ほっこりタイムになりそうですね
考えてみれば 兵庫県は六甲山と有馬温泉・観光船
街をゆっくり歩いた事が無かったですわぁ
平家の痕跡探しに行くのも 楽しいかも(^^♪
yasuhiko
早口なのに柔らかいあの独特の語り口、
忘れられないものがあります。
その生家が福海寺の近くにあるんですか。
彼に因んで、映画祭が行われていたなんて、
時代の風景が目に浮かぶようでした。
街中を歩いて来て、いきなり出合った
新湊川トンネルのレンガの美しさも印象的です。
それにしても、ずい分歩かれましたね。
アルクノ
やけくそにマンボでも踊りたくなります
日本酒にビールが好きそうな狛犬さんでしたね
>てをつないでいる楠さん
にも見えますね
実際はかなりお年を召しているカップルさんです
目立った観光地と言えばそのようになりますが、
歴史探索や、寺社巡りもいいもんですよ
アルクノ
詳しい場所は不明ですが、生家は兵庫区西柳原町とあります。
福海寺のある西柳原から新開地は徒歩10分ほどで、
長治さんは新開地で映画を見て育ったそうです。
>新湊川トンネルのレンガの美しさも印象的です。
新湊川トンネルの坑門には、古い湊川隧道の扁額が掲げられています。坑門の復旧にあたっては、呑口坑門は昭和初期の増築時のイメージを、吐口坑門は明治期の完成当時のイメージを示し、仰るようにレンガの美しさを感じますね。
距離は普段の山歩きに比べると大した事無くて、
ちょっとしたお散歩です
alice
長田神社は三社参りの一つ…
神戸には歴史ある神社が数多く点在していてまたまた驚きました。
この三社参りをすると相当な御利益がありそうですね…
新湊川のトンネルの大きくお洒落な造り。川に囲まれた日本は治水工事はとても重要なものなんですよね。
クスノキに反応してしまいました(笑)
日本には巨木があちこちにあるようで縄文杉、イチョウ、クスノキの長い歴史に比べたら人の一生はほんの一瞬かもしれませんね。
いろいろな時代のさまざまな方々を見聞きされてきたことでしょう。
根が繋がった2本のクスノキ、手を繋いだように見えました?
アルクノ
この三社参りは2019年の1月2日に実施し、1月14日に投稿しています。
今回は三宮の生田神社を省いていますが、
生田神社兵庫宮を入れているので、ミニ三社参り
大病もせず、健康で暮らせているのが御利益だと思っています
旧湊川は氾濫を繰り返し、地域住民を苦しめてきました。
新湊川になり、更に10m×10mの川に広げたので、
それ以降は氾濫はしていないんです。
このレンガ造りは明治時代風ですが、平成の新品なんです
珍しいクスノキに反応してしまいましたか
樹齢は書いていませんが、ここで悠久の時を過ごしたんでしょうね。
手を繋いで、土中、奥深くで足も繋いでいるかもしれませんよ
イッシー
流石にそちらはモダンな建築物が多いですが、阪神淡路大震災の影響も被っているわけで、古よりの長い歴史も相まって独特の街の景観があるのでしょう。つながった楠も印象的でした。
さてさて、話は変わって、ブログの閉鎖問題。。これまで長くかかわっちゃうとやめるに忍びないですから何らかの形で残りたいですが、私の場合は一万件に近くなりつつある記事とその10倍はあろうかという写真データが無事に引っ越せるかという不安はあります。
narayama2008
神戸の兵庫区、歴史のある町なんですね。
神戸と聞くと港町、旧居留地や異人館街、六甲と思い浮かびますが、こうして神戸の歴史を感じながら町を巡るのもいいものですね(^^)
>右側に和風レストラン「ちから」です。
赤飯とうどんの定食だと、やはりメインはうどんって事になるんでしょうね。
ちなみに天丼やカツ丼などを頼むとセットでうどんがついている場合もありますが、あれは丼がメインなんでしょうね(^^;
平清盛の名は何度か出てきますが、今度は足利尊氏の名も出てくるんですね。福海寺は尊氏創建なんですね。映画評論家の淀川長治さんはこの近くのご出身でしたか。あの淀川さん独特の「サヨナラ、サヨナラ、・・・」が思い出されます(^^)
長田神社のクスノキ、大きいですね。それに左右の根っこが繋がっているんですね。きっと神戸の歴史を見守ってきたのでしょうね。
eko
こうしてみると神戸も歴史の古い街ですね。平清盛や足利尊氏ゆかりの地もあって、興味深いです。
寺社も沢山ありますね。どこも立派な本殿や社殿が建っていて風格があります。七福神めぐりも2時間程でまわれるなら良いですね。近くなら歩いてみたいです。
新湊川の赤レンガのトンネルも美しいですね。
淀川長治さんは神戸の出身なんですか。あの独特の語り口が懐かしいです。解説されていた洋画劇場よく見ていました。
長田神社の根っこが合体している巨木の楠凄いです。樹齢はどのくらいでしょうね。
よく歩かれましたね。お疲れ様でした。
日本各地でオミクロン株の急拡大、過去最多を更新しています。わが県もまん延防止重点措置が適用になりました。3回目のワクチン接種を急いで早く減少傾向になることを願っています。
アルクノ
yasuhikoさんへのコメ返にもありますが、
トンネル口は坑門で、川が入っていく入り口を呑口坑門、出口を吐口坑門と言います。
呑口坑門は昭和初期の増築時のイメージを持たせ、
この吐口坑門は明治期、完成当時のイメージを示しているそうです。
その坑門には、扁額が掲げられていますが、
古い湊川隧道の物をそのまま利用しているとあります。
神戸市内にあった古いビルは阪神淡路大震災で、
ほぼ倒壊または破損して建て替えられました。
神社仏閣も倒壊破損したものが多く、ほぼ建て替えられています。
ケミカルシューズ工場が多い長田地区は焼け野原になり、
街そのものが再生され、生まれ変わった姿になっています。
古い姿が蘇った社寺を眺めると、心が落ち着きますね。
根っこが繋がった楠、これを撮影したくて5日にしたとも言えます。
印象深い姿をしています。
>話は変わって、ブログの閉鎖問題
このブログに心血注いで継続してきたブロガーにとっては、
とても重要な問題です。
記事数が一万件近くあるイッシーさんの場合、移転作業だけでも大変です。
私の場合、「より簡単な操作でSeesaaブログに移行できるツールを準備中で、2022年4月にご提供開始予定です。」
を信じて其方へ引越しの予定ですが、
文字数制限で引っ越しが出来ない、或いはブログの形・システム他で大きく変わってしまうとなれば、考え直す可能性もあります。
ここのスタッフが、本年も宜しくと新年のあいさつをして、その舌の根も乾かない内に、「ウェブリブログは、2023年1月31日をもちましてサービスを終了いたします。」
だなんて、よく言えたものだと思います。
そもそも、経営方針やその態度にガッカリ
させられるブログではあります。
すーちん
北前船は興味わく形してますねー
立派な神社が多いんですね
淀川長治さん
懐かしいですねー
厳しい人という感じしてましたー
アルクノ
この歴史ある兵庫が兵庫県になり、田舎町の神戸が神戸市になったと言えます。
田圃だらけの田舎だったので、神戸港は掘削や造成が容易で、
築港がスムースに進みました。
旧居留地区は海外からやって来た貿易港で働く商人への業務・住居地域として、
田圃を買い取り、与えていったわけです。
神戸北野異人館街は、手狭になった旧居留地区を飛び出し、段々畑を買い取った貿易商人が家を建てていきました。
北野町に異人館街が誕生した理由は、開港後の来日外国人の増加による居留地の用地不足にあった。このため居留地や港が南に一望できる環境のよい山手の高台に外国人住宅である異人館が集まり、のちには居留地の仕事場に山手から通勤するライフスタイルも定着したとあり、明治時代から昭和初期にかけて二百余棟が建てられたそうです。
六甲を開発したのも外国人で、神戸に住む外国人が増えるにつれ、
そのレジャー施設やゴルフ場が必要になります。
その後は御存じの通りです。
古い兵庫と、神戸港が出来た新しい神戸の接点が1905年に出来た新開地で、
以前はここを流れる湊川が新旧を分断していました。
旧湊川を新湊川として長田へ流し、
埋め立てた旧湊川をハイカラさんが通る新開地商店街にして、
色町、芸能、映画文化で大いに栄えました。
生田神社は三宮の繁華街近くにありますが、
昔は周りが田圃で田舎にポツンとある神社でした。
旧居留地区が商業地区として生まれ変わり、繁華街が広がりました。
兵庫地区は昔から神社仏閣が多く、商業地化されないまま現在に至っていると言えます。
>右側に和風レストラン「ちから」です。
これは、えべっさんや大国さんにお参りする方の食事場所です。
「力持ち」にかけて、「餅うどん」が定番でした^^;
ここはメインがうどんですからね、他は全部おかずです
天丼やカツ丼のうどんセット、これはうどんがおかずです
チャーハンとミニラーメンセット、これもラーメンがおかずですから
足利尊氏はこの地で、地元に根差した超有名人です。
新時代を開いた英雄か、史上最大の逆賊か。
足利尊氏の評価は、それぞれの時代の政治的・社会的状況に大きく左右されてきました。
後醍醐天皇を裏切った尊氏は逆賊とされ、自由な尊氏論は封じられてきた経緯があります。
半面、楠公さんとして地元で親しまれる、楠木正成は出自不詳。
千早城の戦いでは大規模な幕府軍を千早城に引きつけて日本全土で反乱を誘発させた戦略家で、地元というものを持たないクーデターの大将みたいな人物です。
徳川光圀公の錯覚と明治天皇の私利私欲があり、
神様に祀り上げられちゃいました^^;
一方、平清盛は兵庫港の礎を築き、都を福原に移そうとした、
この地にとっては神様のような存在です。
淀川長治さんも地元では超有名人で、
新開地商店街のモニュメントとして建っています。
日曜洋画劇場は毎週観ていました。
「サヨナラ、サヨナラ、・・・」は印象深いです。
長田神社のクスノキ、これをしっかり撮影したくて、5日にしました。
三が日は、テントで買った食べ物をここで食する方が多いですから。
このクスノキ、私が生まれる前からこんな状態だと思います。
長々と書いてきましたが、この地域の様子が解って頂けたでしょうか?
アルクノ
古くからある兵庫が兵庫県に、
田圃だらけだった神戸がハイカラな神戸市になりました。
平清盛は兵庫の港を造った立役者で、福原一帯を都にしようとした、
理想家とも言えますね。
兵庫区は、犬も歩けば神社仏閣に当たる
と言われるぐらい寺社の多い所です。
西国街道をわざわざ折れ曲げさせる要衝で、
人の流れや物資の流れで賑わっていました。
兵庫七福神めぐりは兵庫の寺社巡りには最適なコースです。
観光の場合は、和田岬駅隣の中央市場前駅からがお勧めで、
南に兵庫ふ頭(兵庫港)があり、北には新たに出来た兵庫津ミュージアムも魅力的。
駅前にはイオンモール神戸南があり中華・洋食・和食と食事にお買い物が出来ます。
イオンモール前には運河があり、散策にも最適です。
アクセスはJR神戸駅~徒歩~地下鉄ハーバーランド駅=中央市場前駅になります。
ハーバーランド駅から神戸港も近いし、ホテルに港クルーズも利用できます。
18きっぷ利用で普通電車日帰りも可能ですよ
新湊川の赤レンガのトンネル、これはこの様に歩いて頂くか、
地下鉄上沢駅を出て、信号のある所を北上すれば神港橘高校が見えてきます。
地下鉄上沢駅は、地下鉄三宮駅から西神方面行に乗車すればいいです。
淀川長治さんの生家は西柳原町で、この「ちから」のある通りにあったそうです。
「ちから」はここが商店街だった昔からある店で、唯一現在まで残っているんです。
検索すると↓
神戸空襲で一度は焼けたが、疎開先から戻って来た先代店主が営業を再開させた。先代店主の妻猪師節子さん(81)は「昔はにぎやかなところだったんだけどね」とほほ笑む。
が出てきました。神戸新聞2020年1月11日の記事です。
>長田神社の根っこが合体している巨木の楠凄いです。樹齢はどのくらいでしょうね。
これを検索すると↓
樹齢推定約800年の楠の巨木があります。 古来、ご神木として崇敬され、赤ヱイの絵馬を奉納して祈願すると、痔病がなおるという信仰があります。
が出てきました。
これを撮影したくて、5日の日に歩いたとも言えます。
湊川神社到着が12:17で、食事を入れて長田神社が16:00迄ですから、
食事時間と立ち止まり撮影&?タイムを省くと、
歩いたのは3時間弱でしょうか。
楽しく、いい運動になりました
>日本各地でオミクロン株の急拡大・・
京阪神も感染者過去最多を更新し続け、
「21日、大阪府は、兵庫県と京都府と3府県で、国にまん延防止等重点措置の適用を要請しました。」
とあります。来週から適用でしょう。
コロナワクチン、私は1回目から7カ月経過で摂取券が未着です。
来月でしょうか。
諸外国の状況から、収束するのは春とみています
アルクノ
北前船を見た時は精巧な船で、これが模型かと驚嘆しました
犬も歩けば神社に当たる兵庫の町です^^;
淀川長治さん解説の「日曜洋画劇場」は毎週観ていました。
詳細な解説で、自分に厳しい人だったんでしょうね。
もこ
長田は震災の時は相当被害に遭ったように記憶していますが神社や楠は焼け残ったのですね
アルクノ
そこからは北にあり、長田神社周辺は火災になっていないし、
樹木も神社も無事だったようです。
長田神社のクスノキの巨木、
樹齢800年だそうで、長田の町を見守ってきました。
winga
壮大な歴史ロマン。
会ってみたかった大国様。
インタビューしたいもんです。
港の発展にも歴史があり思惑もあり。
清盛殿にもランチ食べながらお話したいです。
村重さんも大変でしたね。
煉瓦。大好きです。
私の住む場所は蔬水のそばで毎日小さな煉瓦などを目にします。
趣深しでせうか。
兵庫区って広いんでしょうかね。
暦では大寒が去りましたがまだまださぶいですから温かくしてテクテクなさってくださいね。
今回は気持ち玉が間に合って嬉しいwingaでしたm(__)m
つばさ
70を過ぎてから気の合う友人に巡り合えて、
震災の体験談もお聞きしていましたが、もう27年も経ったのですね。
今まではお洒落な神戸が好きだったのですが、
機会があればもっと違う神戸も知りたくなりました。
一泊してもアルクノさんのご案内通りに歩くのは
きっと至難の業でしょうね。
いつもながら丁寧なガイドぶりに脱帽です。
アルクノ
大国様、どんな方でしょうね。
えびす・大国と良く言うので、気の合う二人かも^^)
ここは道路向かいですから、よくお話していたんでしょうね。
清盛殿はスケールの大きい方だと思います。
この兵庫に貿易港を造り、都をここに移転しようとしたんですから。
魚が好きだったみたいで、和食ランチでお話がいいと思います
煉瓦、大好きなんですか。
旧湊川隧道が残っていて、そこで無料コンサートが実施されていました。
トンネル内は煉瓦だらけで、音が適度に反響して、ミニコンサートホールみたいでした。
コロナが収まると、また実施されると思いますよ。
トンネル内ですから、趣深し深しで御座います
兵庫区の面積=14.68㎢ですからそんなに広く無いです。
16㎢だと一辺が4kmの正方形と同じ広さです。
ゆっくり歩いても4時間で一周できますね。
私が住む北区は240.29㎢で、兵庫区の16.4倍あります。
今日も自宅周辺を1時間テクテクしてきました
ジャンパー着てテクテクですが、寒く無くて快適でしたよ
1日、11日、21日に、気持ち玉の売り出しセールを行っています
アルクノ
ハイ、私が子供の頃から慣れ親しんだ所を歩いてみました
気の合うご友人から震災の体験談ですか。
そのように語り継いでいって欲しいですね。
私はその時ベッドで寝ていましたが、遠くから地響きのような、
ゴーッという響き音が聞こえてきて、ベッドが縦方向に揺れて家が壊れるかと思いました。
耐震設計で大丈夫でしたが、
ここ北区でも古い家屋が倒壊していましたから。
中央区の三宮やハーバーランドはお洒落な町と言えますね。
西の兵庫区は木造家屋に寺社が多くて、下町の雰囲気です。
スタートの湊川神社から実質3時間弱の歩きです。
昼食場所を前編の新開地にしていますが、
この後編の「ちから」にすると距離的にはほぼ中間点になります。
一泊だなんて、とんでも無いです。
休憩増やしても半日で終了しますよ
ひらひらと
ありがとうございます。
「寿司とうどん」のパック、びっくり!
でもなんとなく合いそうで、おいしそうですね。
淀川長治さん懐かしい!
テレビでの映画の軽妙な紹介、まだ耳にのこっています。
美空ひばりの時代劇、いまNetflixで「競艶雪之丞変化」(1957)やっています。観てみようかな・・。
長田神社のクスノキ、すごいですね、驚愕するばかりです。
コロナ禍、第6波、すさまじいですね。
きょう定食屋さんでビールを頼んだら、きのうから提供禁止になっているとのこと。ガックリ!
アルクノさん、どうぞお体、大切に!
すずりん♪
公園は転居後できたそうでが。
川のトンネルなのに立派なレンガ造りの出入り口の飾り?が付いているのですね。
福海寺は足利尊氏が創建したと最近知ったのですが、近くには楠木正成を祀った湊川神社があると思うと、なんだか複雑な思いになります。
淀川長春さんとアルクノさんはこのお寺での映画上映を通して縁があったんですね。
長田神社はまだ5日なのにこの静けさ、宴の後感にはびっくりしました。
クスノキは立派で節くれだった木に悠久のときを感じます。
へ~2本の木の根っこがつながることがあるんですか。
日本酒にビールがいける口ということは、ひょっとしてこの狛犬アルクノさんですか?
カラフルな御神籤モニュメントですね。
七福神が2時間くらいで巡ることができるとは、確かにお散歩がてらには良さそうな感じですね。
と言いながらなかなか行かないんですよね~(-_-;)
アルクノ
色々検索して調べて付け加えています。
「寿司とうどん」のパック、其方には無いですか?
普通ないですよね
地元では「ちからうどん」と親しまれ、お昼によく利用していました。
淀川長治さん、私も懐かしいです。
母・りゅうさんは湊川の活動写真館で喜劇映画を見ていたときに産気づいたと言いますから、胎内に居る時から映画通だった
Netflixで「競艶雪之丞変化」(1957)ですか。
これは私が30代半ばの頃で、映画館で観ました。
前編・後編に別れていて、ひばりりさんは、雪之丞、闇太郎、お園の三役をこなします。
長田神社のクスノキ、これを撮影したくて、
人の少ない5日にしましたが、成功でしたね
アルクノ
門口公園近くに住んでいたのは小学2年生の2学期から、42歳の秋まで。
それ以前は海に近い浜山小学校(現在校舎移転)近くに住んでいました。
JR兵庫駅から新開地周辺は庭の様なエリアでしたね。
成人後、幼少期まで住んでいたエリアへ徒歩圏を広げていきます。
門口公園があった場所、昔は平屋が並んで、その間に狭い路地があり、
「かくれんぼゲーム」の主戦場でした
>川のトンネルなのに立派なレンガ造りの出入り口の飾り・・
トンネル口を坑門と言い、こちらは出口なので吐口坑門になります。
これは明治期、完成当時のイメージを示しているそうで、坑門上には、扁額が掲げられていますが、古い湊川隧道の物をそのまま利用しているとあります。
古い湊川隧道も残っていて、
隧道内で実施されたミニコンサートの様子を過去に投稿しています。
福海寺の足利尊氏と湊川神社の楠木正成、
バチバチ視線が飛び交っている感じでしょうか
正成は足利軍に一度は勝利し、尊氏を九州へ追いやる事に成功していますが、勢力を回復した尊氏が挙兵し京へ進軍しようとします。
正成は京にやってきた所で包囲作戦を提案しますが、
後醍醐天皇ら建武政権の首脳陣に却下されちゃいます。
で、楠木正成は自害し、わずか3年で建武政権は崩壊し、
足利尊氏が開く室町幕府の時代に入った訳です。
一番腑抜けだったのは後醍醐天皇かも?ですね。
福海寺での映画上映、無料という事で駆けつけました^^;
淀川長春さんの生家がこの通りにあったという事で、
「ちから」もその時代から店を構えていました。
ここは店が軒を並べる商店街だった訳です。
ちからの店主は戦中疎開していて、戦後同じ場所で再び店を構えたという事です。
長田神社ではまだ5日なのに、宴のあとでした^^;
これで、湊川神社との周辺人口の違いを感じますね。
本殿内に投げ込まれたお賽銭の収集作業も始まっていて、
手前の小さな賽銭箱へ入れるようにとの指示表示がありました^^;
立派なクスノキで悠久のときを感じて頂きましたか。
作戦成功デス
根っこ繋がりをシッカリ撮影したくて、5日にしました。
これも作戦成功デス
私の来世は狛犬に
これはお断りしたいです。
テクテク歩けないんですから
>カラフルな御神籤モニュメント
以前にもあったようですが、人が多くて撮影しなかったんですね。
約2時間で巡れる兵庫七福神、お帰りはJR兵庫駅が近いですが、
新開地まで歩いても距離は知れています。
実施方法は、カレンダーに「兵庫七福神」と記入する事
雨天予備日にも記入しておくと完璧です
イエティ1号
色々な思い出が甦って来ますね。
「赤飯とうどんの定食」こんなのが昔あったら、食べ盛りの息子に有難かったですよ(笑)
映画祭りの思い出も、私も昔公園で観たのを思い出しました。
そんな時代だったのですね~。
根っこが繋がっている楠木、何時から繋がったのか・・・。
凄い生命力ですね。
アルクノ
昔住んでいた家は無くなり、
周囲にあった家屋もビルやマンションに変っていて、
30年という時代の流れを感じました。
「ちから」に「赤飯とうどんの定食」があり、
まだこれでやっているんだ!と感心しましたね
この様な映画祭りを、昔公園で観られたんですか。
全国でそんな時代があったんですね。
>根っこが繋がっている楠木
これは周りが樹木の植木鉢のような形をしているので、
自然と繋がったのだと思います。
樹齢800年と言われ、長い年月このまま成長しているのが凄いです。
ルーシーママ
さすが神戸ですね
戦争や地震で被害に遭われた神社やお寺
こうして再建されて良かったです
巨大なクスノキ すごいですね 歴史を感じます
永年にわたり みなさんを見守ってくださってるのでしょうね
ホームでの御神酒とじゃがりこ いいですね~~
お疲れさまでした
次回も楽しみしています
yoppy702
まぁ、「三つ子の魂百まで」やから、8歳までの事は解りませんが。(^^)
以前に、(運動の為?)尼崎の若王寺苗田辺りを歩いて帰られてたとの事でしたので、その辺りにお住いの時期ががあったのかと勘違いしてました。
「当時は木造の平屋住宅が並んでいた。」
きっと、ノンビリ(?)とした良い時代やったんでしょうね。
「遊んでいたのは、広いお寺の境内で、説教話も良く聞きに行っていました。」
この時の説法が、現在のアルクノさんの形成に一役買ったのかも。
お菓子が目当て?(^^)
でも、最後まで聞くと、お菓子が貰えるなんて良い時代ですね。
という事は、今回は、アルクノさんの子供時代の遊び場、青春時代にブーブー言わせてた遊び場が含まれていたんですね。
あっ、青春時代は、バイクでしたっけ?(^^ゞ
和風レストラン「ちから」って…
中も、外観のようにレトロなんですか?
この陳列棚がスゴイなぁ…
こちらにも、昔からの食堂には、こんなのがありましたけど、いかにも、懐かしい味がするって感じがします。
「寿司とうどんのパック」もそうですが、うどん&ご飯系やお好み焼、焼きそば、たこ焼きにご飯系も東京の方からしたら不思議がられましたね。
今は、この関西の文化が知れ渡ってますから、東京にもあるかもしれませんが。
なので、赤飯&うどんは、うどんがオカズでしょうね。
神戸には、さらに飛躍した、「そばめし」ってのもありますもんね。(^^)
新湊川のトンネルですが…
湊川隧道も、こんな外観とちゃいましたっけ?
湊川隧道は、殆ど、水が無いんでしょうけど、ここは、現役の川ですか。
湊川隧道は、120年程前の物やから、同じ時期に出来てるんですね。
素晴らしい歴史遺産や。(^^)
アルクノ
この吐口坑門は明治期の完成当時のイメージで仕上げたそうで、
今見てもお洒落な感じがしますね。
神戸は神戸大空襲と阪神淡路大震災の両方で被害を受けています。
綺麗に再建された事、歩いていても感じます。
このクスノキは樹齢800年だそうで、長い年月市民を見守ってきました。
市内に多く植えられているクスノキですが、その代表格と言えます。
駅ホームで、御神酒とじゃがりこでやっと落ち着きました
次回の箕面大滝と勝尾寺も宜しくお願いします
とわ
わ~、8歳から40歳までこちらに住まわれて。
それはもう、思い出深い場所でしょう。近道や裏道など、知り尽くしてるのではないですか^^
街中に溶け込むように神社やお寺がある感じ。多くあるのかな?
長田神社のクスノキ、大きくて古い木ですね~。
天然記念物なんですか、パワーを貰えそうですね。
寿司きつねうどんパックに赤飯定食!いいですね、お赤飯もお寿司も大好きなので食べたいで~す。関東では赤飯定食、聞いた事無いかも…です。
アルクノ
小学2年の2学期(8歳)から42歳の秋まで門口公園近くに住んでいた事が判明。
それまでは同じ兵庫区の浜側にある浜山小学校近くに住んでいました。
この浜山小学校、場所を少し移動していますが、検索するとそのHPが出てきます。
神戸中央市場から西にあるサッカー場、ノエビアスタジアム神戸の近くにあります。
このサッカー場は昔競輪場があった所に建てられたものです。
余談ですが山仲間のトマトさん、浜山小学校の2年先輩で住まいもその近くです。
以前登場していたケンさんのボランティア仲間という事で参加していましたが、
後年、同じ小学校の2年先輩という事で驚いたことがあります。
>以前に、(運動の為?)尼崎の若王寺苗田辺りを歩いて帰られてたとの事でしたので、
よく覚えていましたね。
これは、産業医から肥満傾向にあるので歩きなさいと言われ、
阪急園田駅から帰るところを、退社後塚口まで歩いていたという事です。
その時の住居は神戸市北区です。
その頃から坂道や近くの山を歩くようになり、
1年間で10kg減量、ウエストが10cm減少し、健康体で退職出来ました。
それで、歩くことの重要性を知り、SNSに入って山仲間を作りました。
その時の仲間で、当ブログでも続いていたのがケンさんと遊子さんでした。
遊子さんとは現在も継続中
>「当時は木造の平屋住宅が並んでいた。」
車が通れない細い路地があり、かくれんぼの主戦場でした^^;
説教話も良く聞きに行っていたお寺は、この門口公演の東方向にある、
藤之寺という所で、遊んでいたら「後でお菓子あげるから上がる?」
と言われて、聞いていました^^;
話の内容はほぼ覚えていませんが、誰それがどうたらこうたら^^;
苦労に耐えて名を挙げたとか、面白くない話です
周辺は遊び場でしたが、中学生になると、
友人と新開地や長田の映画を見に行っていました。
二輪は働くようになってからで、職場の仲間とアチコチ出かけていましたね。
和風レストラン「ちから」はレトロそのものですね。
昔この通りは淀川長治さんの生家がある商店街でしたが、
戦時中は皆さん疎開して、もぬけの殻になり、
戦後「ちから」の店主が戻って来て、同じ場所に開業したという事です。
店主の死後、その奥さんと家族が営業を続けているというニュースがありました。
店構えからして昔のまんまです。
北区に転居後、懐かしさで柳原の十日えびすにお参りをして、
「ちから」で餅入りうどんを食べたことがあります。
その時、ビールは置いていませんと言われ、
以来入店していないんです^^;
大阪にも、うどん&ご飯系やお好み焼等があり想像できると思います。
いや~、私の子供の頃は赤飯が美味しいおかずでした^^;
「そばめし」は長田発祥で兵庫区には無かったです。
長田の労働者がお好み焼き屋に入り、
差し出した冷や飯をそばと混ぜたのが始まりと言われています。
2000年(平成12年)に新湊川トンネル(新湊川隧道)が竣工したが、
1901年竣工の湊川隧道と言われるものとそっくりです。
川を幅10m深さ10mにした関係でトンネルそのものを造り替えていますが、
そのデザインは踏襲しています。
この吐口坑門は明治期、完成当時のイメージを示しているそうです。
その坑門には、扁額が掲げられていますが、
古い湊川隧道の物をそのまま利用しているとあります。
これは拡幅工事後のトンネルで、大雨が降れば人の身長を超える水量となります。
以前、隧道内で実施されたフルートコンサートの模様を投稿しましたが、
当時川幅が狭かった新湊川は明治時代からそこを流れていました。
新湊川起点は何度か紹介していますが、そこから会下山を貫いて、
長田へ流れていて、トンネルを移動していますが、流路は明治時代と同じです。
1901年竣工、121年前の湊川隧道は、
トンネルの呑口、内部は近代化遺産として保存され、2019年(平成31年)3月29日に国登録有形文化財に登録された。
とあります。
アルクノ
正確には小学2年の2学期・8歳から、
42歳の秋までこの辺りに住んでいました。
近道や裏道など、全て知り尽くしていましたが、
周辺の建物が変わって、アレレとなる場面も^^;
>神社やお寺がある感じ。多くあるのかな~
そうなんです。
この地域の環境に慣れていたので、
全国津々浦々こんな感じかと思っていました。
大人になってアチコチ訪れるようになり、
これはちがうぞ~、となります。
現在住んでいる神戸市北区は神社仏閣少数区域で、
数キロ歩かないと、お寺に辿り着けない^^;
仏壇があるので、お寺さんに来てもらっていますが、
我が家へやって来るのに、車で30分かかるそうです^^;
門口公園近くでは徒歩2分でしたのに
長田神社のクスノキ、大きくて樹齢800年の古い木らしいです。
神戸市指定の天然記念物でして、
地域のパワースポットにもなっていますよ
寿司きつねうどんパックに赤飯定食!
これいいです
現在このお店だけ残っていますが、昔はここが商店街で、
淀川長治さんの生家があった通りなんですよ。
関東でうどんと赤飯の定食、流行らせて下さい
miyo
冒頭の写真は房王寺橋なんですね~お洒落な橋デス~(^^♪
アルクノさん、兵庫に8歳~40歳までお住まいでしたか~
青春を過ごした昔の住家は懐かしいでしょうね!
お寺で遊んで説教聞きおかしを頂くなんて、昭和~ですね!
お菓子目当ては子供らしい~?
そう言えば、岡山実家のお寺さんに歩いてお参り行った時、孫にお菓子頂いた事ありますね~
父が長崎から出稼ぎで兵庫の港で造船&港湾関係の仕事してた様です。miyoはまだ小さかったので話だけ聞いてましたが。。
記憶にあるのは、お正月は大きな箱にバナナ一杯箱詰めて帰って来てました!
miyoも神戸の専門学校行ったので、見てると所々記憶があります!
柳原蛭子神社や長田神社何度か行った事あります。
クスノキの巨木見事ですね~何年物なんでしょうね~!
あっ!大人のじゃがりこ!これ美味しいですね~(^_-)-☆
アルクノ
房王寺橋に注目されましたか^^;
この橋の上にマスクをした女性が二人いますが、
鳩に餌を与えているんですよ。
その女性が去ってから、トンネルの写真を撮っています。
現在は門口公園となっている近くに8歳~42歳まで住んでいました。
それ以前も兵庫区で、浜に近い浜山小学校近くです。
ちょっと離れた所にノエビアスタジアム神戸があります。
このサッカー場は昔競輪場があった場所に建てられたんですよ。
懐かしいけど様変わりで、住んでいた所は駐車場に、
木造住宅はビルにマンションにと変貌していました^^;
面白くもない説教話ですから、お菓子目当てで聞いていました。
話の内容はほぼ覚えていないです
岡山にある実家のお寺さんでもお子さんにお菓子を!
今に続く風習ですか
お父様が長崎から出て来られ、兵庫港で造船&港湾関係の仕事をですか。
私の父は結婚後直ぐ戦争に駆り出され、帰国後は三菱造船所で働いていたようです。
その後脱サラで大工見習になり、大工の棟梁になっていきます。
その後、父が育てた大工と協力して家を建て、
8歳からそこに住んでいました。
>お正月は大きな箱にバナナ一杯箱詰め・・
いいですね、幼少期高級食材でなかなか食べられなかったバナナ^^;
これらの写真で記憶が蘇りますか
柳原蛭子神社や長田神社は有名ですからね。
柳原蛭子神社は家から近かったので、
今日は10回えべっさんにお参りしたとか、
子供同士で自慢話をしていました
このクスノキの巨木、調べると樹齢約800年とありました
このブログに書いた事では820年ほど前、
1184年(寿永3年)2月 源義経ら、摂津国福原で平家軍に大勝する。
1185年(寿永4年)3月 壇ノ浦の戦いで平家滅亡。
ですから、激動の時代でしたね。
大人のじゃがりこ!、日本酒とも合いますヨ
クリム
ふふふ、と初めから最後まで楽しく読ませていただきました。
大きなトンネル。これは一体、何?の箇所ではミステリー小説風ですね。
冒頭のお写真だったのですね。引き込まれました。
クスノキの巨木。左右の根っこの繋がりに驚きました。
しぼりたて大吟醸、美味しそうです。
大人のじゃがりこ。パッケージにある通り、あとからじわりと来ましたか?
アルクノ
私は、トンネルに注目してもらおうと、
ストーリー展開をミステリー風に考えました
うふふ・・
クスノキの巨木が根っこで繋がっている!
私も古希を過ぎるまで、膝をコキコキいわせて、
楽しく歩いてきましたが
この様なクスノキを他で見た事が無いです。
しぼりたて大吟醸の方が強烈で、
「大人のじゃがりこ」は子供向けに思えてしまいました^^;
ブログを開設して間もない時の「兵庫七福神巡り」を見て頂き、
気持玉をありがとうございます。
これは簡略化し過ぎて、詳細が?だったと思います。
前編にある
史跡和田岬砲台と兵庫七福神めぐり(2019.03.14・木):
https://21846851.at.webry.info/201903/article_2.html
の方が分かりやすいですよ。
それをこの後編に追記しちゃいました
秋月夕香
このあたりに長い事すんでおられたのですね。
そして阪神淡路の震災にもあわれたのですか。
さすがに街並みも鉄筋になり、新しく美しく整備されましたね。
ちからうどんやさん~赤飯とうどん~どのようなお味になるのでしょう。
そのようなメニューは見た事はありません。
この辺りは神社仏閣が沢山あるのですね。
なるほど淀川長治さんですか、なつかしいですね。
今年もコロナのために神社にお参りする人はすくないでしょう。
あらゆることに関係があるのでやはり早く収束してほしいですが、まだ当分無理ですね。気を付けてすごします。
はるる
そして鳥居の色、朱色は特に目をひきます。
こういうところにある大木は、これも立派なものが多いです。
木を見ていると、神様が宿っているようです。
といいますか、大木しのものが神様ですね。
アルクノ
朝は超特急・新幹線でしたか^^;
忙しかったんですね。
この門口公園近くに8歳から42歳まで住んでいました。
引越して4年後ぐらいに阪神淡路大震災が発生し、
木造家屋が多かったのでかなりの被害を受けていましたね。
その後マンションや鉄骨3階建てなど、
耐震性に優れた建物が並ぶようになっていきました。
「ちから」うどん屋は昔の味を踏襲しています。
終戦後、疎開先から戻って来て、
営業を続けているのはこの店だけとなりました。
赤飯とうどんのセット、子供の頃食べた記憶があります。
美味しい赤飯でして、おかずのようにして食べていましたね。
転居後、1月10日に柳原十日えびすで来た時は、
ここで餅入りうどんを食しました。
その時、ビールが無いと言われ、以来訪れていないです^^;
麺類とご飯ものを一緒にするのはこの地域独特だと思います^^;
中華では、ラーメン・チャーハンセットがありますから
学生時代は、友人とラーメン・ライスが定番でしたね
>この辺りは神社仏閣が沢山あるのですね。
兵庫区、犬も歩けば神社仏閣に当たると言われていました。
現在住んでいる神戸市北区では、
数キロ歩いてやっとお寺に辿り着けます。
淀川長治さん「ちから」うどん屋がある通りに生家があったそうです。
ここは昔商店街で、戦前はお店がびっしり並んでいたそうですよ。
そこら中にオミクロン株が蔓延していて、出かけられませんね。
自由に出かける人達がほぼ感染した後、収束に向かうと思います。
急拡大の後、2月に急減少が始まると予想しています。
それまで我慢ガマンっですね
アルクノ
其々、建て替え、補修、改築の過程を得て存在しています。
朱色の鳥居、これらはほぼ木造で建て替えられたものがほとんどなんです。
鮮やかな色が目立ちますね。
神社の大木と言えば神木が多いですね。
この楠は神木で、加えて市の天然記念物ですから、
更に格式が高いです。
樹齢も800年だそうで、
源平の戦いが終わった頃から成長し続けています
降魔成道
甲州の久遠寺なら参拝したことがあるのですが、兵庫区にもあったのですね。浜の寺と呼ばれるのは浜辺にあるからなのでしょうか。あるいは現在は浜辺でなくても元々は浜辺だったとか。門口町の地名はいかにも河口の町という感じですが。柳原のえべっさんは雰囲気が良いですね。神戸には歴史と風格のある寺社がとても多いですね。街自体が歴史がありますからね。私もゆっくりと巡ってみたいものです。
アルクノ
清盛がこの兵庫を国内随一の国際港にしたかった目的は、
ここ福原に遷都して、得た利益を都に注ぐためだと思います。
一応、安徳天皇、高倉上皇他を福原へ行幸する形で遷都となりました。
京都・奈良の影響を避け離れた土地にという考えもあったでしょうが、
港と都を合体させたい想いがあったのではと想像します。
都に海外から最新物資が次々入って来れば、更に栄えるでしょう。
しかし、都市として整備も進んでいないし、
平氏を追討する動きも出ていて、
先にやるべきことしていなかったので頓挫。
清盛は病に倒れ、勢いのある源氏に潰されてしまいます。
ただ大輪田泊(後の兵庫津~兵庫港)の重要性は理解していたので、
東大寺の大仏勧進僧重源によって建久7年(1196年)、国営工事として完成しました。
>細川勝元は山名是豊と赤松政則にその奪還を命じましたが、一気に焼き払ってしまったのは何故でしょうね。
国会に文句言うだけの野党がいるのは何故でしょうね?
それと同じ事ですね^^;
現在ある兵庫区のかなりの部分は埋め立てて出来た所で、
地名にもそれが現われています。
三川口町の場所に、川なんか1本も無いです。
上沢町、下沢町がありますが、沢なんか見当たらないです。
8歳まで住んでいたのは浜中町ですが、海岸とは離れていました。
門口は、
「福海寺との間の道路には西国街道の兵庫の出入り口で東の湊口の惣門と同じく、西の柳原惣門があった場所とされている。」
この関係だと思います。
柳原のえべっさん、子供の頃ここに何回お参りしたかで、
その回数を競い合っていました。
神社仏閣が多い兵庫区ですが、
子供の頃はこれが普通で、全国こうなっていると思っていました。
42歳で神戸市北区へ引越し、
お寺のある所へは数キロ歩かないといけません^^;
y&m
私の巡回速度が遅いのか?、アルクノさんの更新速度が速いのか?(笑)。
昔、広島に赴任していた時に、平清盛が一夜にして、"音戸の瀬戸" を
開削したと聞いて見に行きましたよ。ありゃあんまりですね。(^^♪
自衛艦が悠然と通り過ぎました。水深も有って1週間掛かっても無理です(笑)。
和風レストラン "ちから" エエ雰囲気です。絶対旨いはずです。
昔は大阪のあちこちに、こんなお店が沢山有ったんですが、いつの間にか
ラーメン屋に変身しました。(^^; 寂しいもんです。
アルクノさん これで3時間の散歩ですか?。何気に3時間って
書いてらっしゃるけど、神戸って六甲山の山裾で東西はすごい坂道ですね。
オマケに南北は大きなウネリのある坂道で、大阪平野育ちの私なんか、
全部坂道やんか!って思います。絶対に神戸方面の方は足腰強いですよ。
アルクノ
「気持ち玉」売り切れを嘆く方へのアドバイスとして、
「今年から1日、11日、21日に気持ち玉を販売するようになりました。」
とお伝えしています
今年に入り、販売後2~4日で完売状態です
>平清盛が一夜にして、"音戸の瀬戸" を 開削・・
歴史的史実は誇張されますから、信用できないですね。
経ヶ島の伝説では、工事が難航し複数の人柱を立てた、
或いは願いでた少年の話まで残っていてその墓迄・・。
これらは嘘っぱちで、無時を願いお経を沈めた、
それで経ヶ島となったのが定説です。
和風レストラン「ちから」は戦前の味を引き継ぐレトロなお店です。
戦中は四国に疎開していて、戦後同じ場所に再開して開業した、
数少ないお店で、現在はここだけ。
淀川長治さんはこの通りに住んでいて、
当時は賑やかな商店街だったそうですよ。
>神戸って六甲山の山裾で東西はすごい坂道ですね。
南側の市街地は南北にすごい坂道があり、中央区も北野町へは急坂ですね。
六甲山系が南側の大阪湾に迫っています
神戸も西区へ行くと平野になり、此方はうねりのある坂道で、
北区は山中にあるので、周囲が坂道だらけです^^;
そこで育ったので、アルクノとなりました
大阪平野は四方八方平らで、
市内で最も高い場所としては、花博記念公園鶴見緑地内の「鶴見新山(鶴見区:39m)」がありますね。
yasu
いつもお越しいただき気持ち玉をありがとうございます。
アルクノさんのような中身の濃い立派なブログを残せないのが残念ですね。
ご無沙汰ではありますが、いつも気持ち玉は私の励みになっております。
拙いブログへ、変わらず足跡を残していただき感謝しかありません。
新しいブログへ引っ越しできるかも分かりませんし。
皆さんとこのままお別れしたくないです。迷いますね。
本当にいつもありがとうございました。
アルクノ
コメントを有難うございます
いやいや、暇つぶしに色々調べて書き連ねているだけです^^;
人其々特色があり、何時も勉強させて頂いています。
私もこのまま全部消えてしまうのはとても残念で、
何とか残そうと思っています。
案内にある、
「より簡単な操作でSeesaaブログに移行できるツールを準備中で、2022年4月にご提供開始予定です。」
これができるようになれば試してみます
それを見て、参考になさっては?
と思います。
ミクミティ
兵庫区の寺社巡り、まる自分もお参りに散策しているような気分にしてくれます。
都賀堤は、池田恒興の建設でしたか。これが江戸時代には町の骨格になったのですね。この辺りは、平清盛ゆかりの場所も多いですよね。
今年は、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が放映されていますから、ちょっと敵役という感じになってしまいますね。神奈川県は盛り上がらせていただきます。
由緒ある長田神社も立派ですね。
樹高20m以上のクスノキは、やっぱり迫力があります。
これだけでも歴史の風格や重みを感じますからね。
アルクノ
もしご無沙汰感を解消したい場合、
31日以外の「1」の付く日が目安になります
この後編では、
8歳から42歳まで暮らした所を中心に紹介してみました。
私も昔散歩していた気分で撮影しています。
兵庫区を北上後、新湊川沿いを歩いているので、
寺社には立ち寄っていませんが、この周辺にも点在しています。
都賀堤について、
昔はこの様な看板が無く、私も勉強のつもりで調べてみました。
云いたかったのは、清盛が行なった築港が兵庫港、
更には神戸港の発展へ繋がっているという事でした。
「鎌倉殿の13人」はまだ見ていないので、今後注目していきたいです。
北条義時を主人公に描かれるそうで、源平の時代が終わり、
舞台が此方から其方へ、ですね
ラストを長田神社にして、
歴史では負けない兵庫県を強調してみました
5日にしたのはこの楠を撮影する為でして、
三が日だと、人物集合写真になってしまいます
たかたんです
自分は今は毎月ハローワークに通うぐらいです
まあ、ウォーキングは欠かしていませんが、
歩数は知れています。そろそろパソコンも寿命かもしれません。
よくフリーズするし、
元気に会える日楽しみに。
アルクノ
コメントは、ほぼ1年前の2021年2月14日以来です。
その最後に、
「わたしはウォーキングさぼって最近は体重増加です」
とありましたが、改善されましたか?
私の場合、退職1年前に産業医から歩きなさいと言われ、
その1年間で体重10kg減、ウエスト10cm減となり、
健康体で退職して、山歩きやウォーキングに励んできました。
ハローワーク通いも何れ終るでしょうから、
ウォーキングを本格的に
PCは最新式に更新を
コロナが収まれば、いつかまた