丹生山(たんじょうさん)とその地域の歴史(2014.10.25・土)

順位 160位 アクセス数1150(2019.6.30調査)

この丹生山は昨年篠山自然の会で計画していたが台風で中止になり、
そのリベンジです。
今年も10月にWの台風襲来でヤキモキしていたが、
当日は良いお天気で実施できました。
手軽に行けて篠山からのアクセスも良い丹生山です。
で、神戸在住のアルクノが案内します。

篠山自然の会の皆様へ。
ネットで調べなくても、
これを読めば丹生山とその歴史について大体の事が分かると思います。


集合場所は衝原(つくはら)バス停近くの駐車場(am9:00~pm6:00 500円)。
箕谷インターを降り衝原へ向かうと15分で到着します。
篠山からは1時間半かかったという事でした。
アルクノは神鉄・箕谷駅から市バス111系統に乗車し、終点下車でOK。
箱木千年家(拝観有料)が近くにあり、
志染川が吞吐ダムにせき止められ、衝原湖となるポイントです。
調べると、
自転車道で繋がっている衝原湖に架かる衝原大橋の標高が155m。
駐車場もそれ位の標高でしょうね。
丹生山の515m(山頂にある表示)から差し引くと標高差は360mで、1時間チョイで行ける事を考えると、手軽に行ける山と言う事になります。


丹生山は神戸市北区山田町坂本の、六甲山系と共に六甲山地を形成する丹生山系または丹生・帝釈山系と呼ばれる山塊に属する標高514mの山。
山系にはこの山名が付いているが、最高峰は596mの稚児ヶ墓山である。
兵庫50山の一つ。
神戸層群ができたあとに隆起し、できた山である。
とあります(ウィキ引用)。

山頂にある丹生神社には、丹生都比売(にうつひめ)を祭ります。
この丹生都比売は呉越(中国)より渡来した水銀鉱業を生業とする丹生氏(にうし)の氏神で、戦前までは「にうやま」と呼ばれることもあった。

そのウィキペディアにある丹生山の写真に一言。
山系の一部を写しているが、肝心の丹生山はその写真をはみ出て左側にあります。
山頂部分が樹木で鋸の歯のようになっている所です。
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2年前、丹生神社前バス停近くにある鳥居から撮影したもの。
この写真を掲載してもOK牧場^^)

地質学的なお勉強です。
この地域、山田の地層は丹波層群に新たな地層が堆積したり、地下から花崗岩が貫入したりして、複雑な地層模様を描いているとあります。
丹生山地を覆う流紋岩と六甲山地を形成する花崗岩の組成はほぼ同じであるらしい。
白亜紀末期のころ(7500万年~7000万年前)、地下のマグマが神戸付近の巨大なカルデラから地上に溶岩が流れ火山灰が降り積もったのが丹生山地を覆う流紋岩(有馬層群)で、地下でゆっくり冷えて固まったのが六甲山地を形成する花崗岩と云うことで、両者はいわば兄弟関係にある。
ただし、まだ六甲山も丹生山系も隆起していないかなり古い時代の話です。
(「大地の成立ち ~山田の大地の成り立ち~」より引用↓
http://www14.plala.or.jp/niu_yamada/chisou.htm

六甲山の形成はそのず~っと後、
およそ100万年前から、六甲山一帯に東西方向の強い圧力が加わり、その結果、六甲は上昇して丘から山地に成長しました。
丹生山地は火山岩でできていますが、山塊の形成は噴火ではなく、
六甲山と同じように新しい時代に隆起したもので、火山ではありません。

次に衝原とは。
見下ろすがごとき衝立のような山が原っぱの背景にあると言う意味です。
衝原は吞吐ダムにせき止められ衝原湖となったが、その湖底に沈む運命にあった古い民家を解体して移築しました。
解体時に判明したのは、神戸では最古の民家で筑後700年以上は経過しているという事です。
箱木家のものなので箱木千年家と名付けられました。

源義経は平家討伐の際、北から現在の神戸市地域に入ったと伝えられる。
進軍しやすい衝原を通って、藍那道~藍那~鵯越~平家の本陣(現在の兵庫区)へと向かえば良かった訳です。
しかし、衝原では両側にある山がその行動を見下ろします。
そこに平家の見張りがいたら大変で、隠密行動の義経は衝原コースを取れませんでした。
鵯越の逆落しに向かったのは精鋭七十騎とされるが、
ここを進軍したのは三千騎なのでかなり目立つ存在です。
以上の理由で、地元民の案内を得て山道を利用したのは頷ける事です。

その義経が下った道を私達は登ります。
更に、平清盛が神社参拝に使用したと言う参道を下り、
下山後は、現在の藍那古道の入り口から義経を鵯越まで案内したと伝えられる鷲尾武久が住んでいた鷲尾家の敷地とその墓所を訪れます。
更におまけは、丹生神社前からバスに乗車せず、長閑な山田の里を歩いて衝原の駐車場まで向かった事です。
バスが1時間に1本しかない事が理由でしたが。


コースと実際の時刻です。
衝原バス停近くの駐車場をスタート(10:14)~サイクルセンター横の登山口(10:17)~[義経道]~平らなスペースで休憩(10:47~)~要明寺歴代住職の墓地(11:12小休止)~表参道出合(11:20)~明要寺跡(11:27)~社務所(11:35小休止)~山頂・丹生神社(11:40~昼食・休憩~12:15)~[表参道]~延命地蔵尊(12:45)~帝釈鉱山道出合(13:05)~丹生宝庫(13:36)~鷲尾家跡近くの石燈籠(13:48)~鷲尾家墓所(14:05休憩)~[神出山田自転車道]~駐車場にゴール(15:00)

植物観察をしながらゆっくり歩きました。
鷲尾家の石燈籠とされる所で、偶然ですが地元の方の説明を受けました。
鷲尾家墓所から駐車場へは30分弱の距離ですが観察と休憩時間が入っています。
山歩きは約5キロで、下山後の平地歩きを入れると8キロ程度でしょう。


過去最大クラスの前置きは終了し、以下本編になります。

私が乗った市バスが衝原に到着とほぼ同時に、篠山から数台の乗用車が次々到着(10:00)。

全員、神戸市自然休養村管理センターのトイレを拝借します。
ここの駐車場には「当施設をご利用の方以外の駐車はご遠慮願います」とあるので、道路向かいの有料駐車場を利用します。
参加は15名で、コース概要や見所のあらましを書いた資料を配布後、
簡単に説明してスタート。
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サイクルセンター横の登山口は3分後(10:17)。
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最初はなだらかな道ですが、
夏には蜘蛛の巣や羽虫で悩まされる所です。
直ぐ左に汚れた溜池があり、過ぎると山腹道になる。
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九十九折になって高度を上げていくと、
コウヤボウキが咲いていた。
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更に上がると商売が出来る程にウラジロが沢山。
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この鮮やかな色を正月まで保存するにはどうしたら^^)
ウラジロの先に休憩所(10:47~)。
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ベンチが無く展望も無いが、ほぼ中間点になる。

行くと急傾斜になり、十五騎の進軍はスロ~スロ~。
この岩は登っても、右に迂回しても、OKですが、
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こんな岩が他にもあり、ジグザグに登る所も。
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高度を上げていくと、後ろに神戸北町が広がる。

登り一辺倒で、緩やかになってくると六地蔵です。
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一つ右にずれているようですね。
この奥に墓地があり、小休止(11:12)。
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明要寺歴代住職さんのものと聞いています。

表参道に出合ってホッとする(11:20)。
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ここから左へ山頂を往復し、そのまま表参道を下ります。

直ぐ左の丁石に「三丁」と記されています。
「山頂まで三丁です!」と言うと皆さん小笑い。
捻りが無くイマイチ。

笹や雑木で覆われたトンネルを
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抜けると、明要寺跡の石碑(11:27)。
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秀吉の弟秀長がこの辺り一帯を焼き打ちにしました。
僧兵数千人と落ち延びさせようとした稚児も全て皆殺しにしたという事です。
村人が、その哀れな稚児の亡骸を見晴らしの良い山頂に埋めました。
これが二座隣にある稚児ヶ墓山の由来で、丹生山系の主峰になっています。
以前にも書いたが、その事を知り、ブログ開設以前から何度も稚児ヶ墓山に登っています。
子供のおもちゃが置いてあったときは感極まりました。

焼き打ちにした理由は三木の別所に味方して、食糧供給地になっていたからです。
この後別所長政は兵糧攻めにあい、一族郎党は自害して住民の命を守ったという事です。

この明要寺史跡の左にある看板が明要寺の曼陀羅絵図で、平清盛が寄進したもの。
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当日反射があり、まともに写らなかったので以前に撮影したものです。
2度クリックして大きくすると、小さな文字も読めると思います。

最近の研究では、信長は比叡山を焼き払っておらず、腐敗した延暦寺の僧兵と戦っただけとも言われています。
清盛が堂塔を整備したここは、信長の息のかかった武将に焼かれてしまいました。
信長より残忍だったのでしょうか。
この絵図は麓の丹生宝庫が所蔵し、毎年5月5日に一般公開されます。

その向うにノコンギクが一面に。
単体だとそうでもないが、
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群生していると、綺麗です。
行くと鳥居があり、そこに簡易トイレがある。
暗くて清掃した形跡もないポットントイレです。
見栄えも良くないので写真は省略。

階段上がると社務所があり、
その屋根の上には篠山の方がお気に入りの物があります。
シーサーにそっくりで、
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目が可愛いと仰います。

社務所前には奉納相撲が行われた土俵があり、その向うに大木です。
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樹勢が見事と、会長がカメラに収めたのはツクバネガシの大木。
枝先の葉が輪生状に並ぶ様子が羽根つきの羽根(衝羽根)に似ていて、
それが名の由来。
シイタケの原木に利用されます。

左へ上がると山頂で(11:40)、12時10分まで昼食休憩とした。
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私を含め数名は神社拝殿の前で食事を済ませます。
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眺望がどんなものか紹介します。
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右の樹木に接するのが菊水山でその左隣が鍋蓋山。
右に画面を食み出た須磨から、左端の摩耶山まで、
六甲縦走路の稜線が確認できます。
上空に暗雲が垂れ込め、写りが良くない。
このあとパラパラと雨が降る。

神社の前で集合写真撮影を済ませ、下ります(12:15)。
登って来た分岐を過ぎると、ややあって石段になる。
荒れて崩れ、土が被さり、斜面の様になっている所です。
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右にあるのは七丁と彫られた丁石。

石橋を渡って行くと、
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延命地蔵尊が左にある。
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裏参道との合流点で、写真右下に写っている舗装路が丹生神社の裏側へと続いています。
神社へ物資を運ぶ為でしょうが、車に出会ったことが無い。
ここで個人による撮影。
10分ほど休んで、なだらかな舗装路を下ります。

次に帝釈鉱山道との出会い。
丁字路になって突き当たる処です。
前に行こうとする人を呼び止め、ここで10分程後続を待ちます。
右に行くが、直ぐに林道と別れて左へ。
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直進すると衝原へ帰れるが、単調な林道で見所も無いです。

途中、こんな傘を作ったら売れるのでは?
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と思うようなキノコがあった。
追記)
篠山自然の会の会報で会長が今回の事を執筆され、
このキノコはカラカサタケ(毒)と判明した。
ほんと、唐傘のようです。


竹林が広がると山道は終わり、車止めを出て右へ下る。
丹生山2.8kmと書かれた道標を過ぎると、
丹生宝庫と記された丹生神社宝物殿がある(13:36)。
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ここに明要寺跡に掲示されていた曼陀羅絵図のオリジナルが保管されています。
駐車場がありませんが5月5日に見に来て欲しい。

山田の里の長閑な風景を眺めながら、
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行くと、冒頭の鳥居がある。
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鳥居を潜って左が箕谷駅へ向かう丹生神社前バス停で、
衝原に向かうのは道路の向う側。
押しボタン式信号を渡って田圃に向かう。

赤↓が鷲尾家跡の石燈籠と言われていたもので、
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それに向かって進み、戻って藍那古道に入ります。
これがその石燈籠。
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太神宮とあるが大神宮と同じ意味で、天照大神をまつる神宮のことです。

少し先に地元の方が居られ、何やら同行者に説明しています。
鷲尾家の敷地を訪ねてきたことを察して本当はこうだと言っています。

この石燈籠は鷲尾家のものでは無く、疫病が流行った折に作られ、別の場所にあったものをこの場所に移転したそうです。
鷲尾家の敷地はここから少し奥にあり、その表示を作る様に働きかけているが実現していない。
と仰ってます。
鷲尾家は現在岐阜に転居しており、墓の掃除は年一回鷲尾家一同がやって来て行なっているそうです。
鷲尾武久が義経軍を案内したが、三千騎を一人で案内できる訳が無く、村人大勢を集めて案内したという事です。
そのリーダー的存在が鷲尾家17歳の武久君だったようです。
更に、
山上にある曼陀羅絵図の写しは、10万円以上かかったものについては10万の補助が出るという事で設置したと仰っています。大河ドラマに合わせて神戸市が予算を計上した訳です。
鷲尾家の敷地表示も10万円の補助金を貰って作れないでしょうか、とお願いしました。
更に驚いたのは、
この方、これら地元の事を執筆し、上下二巻に書き上げて出版したそうです。
ご当地作家さんでした。

詳しい説明にお礼を述べ、鷲尾家の墓所へ向かいます。
今年の3月までアルクノが担当し1年の間毎月歩いた、
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太陽と緑の道「藍那古道」の入り口です。
少し登ると、三叉路になった左に鷲尾家墓所の石柱があり、
上がると沢山お墓が並んでいます。
その中で一番大きいものが鷲尾家本家のお墓(14:05~)。
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墓を建立したのは三十六代当主で芳名が赤く塗られていて、
ご存命の方です。


全ての案内は終了しました。

休憩後駐車場へ戻ります。
車道は車が多く、鳥居を潜って、志染川の向う側を左へ向かいます。
これが神出山田自転車道で、右は台風による土砂崩れで通行止めです。
左の衝原へは行けそうです。

行くと、此方も土砂崩れ。
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通れますが、酷い事になっています。

可愛い朝顔を眺め、
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途中休憩もして、駐車場に到着。

トイレを拝借し全員帰路に着きます。
Naさん、私を駅近くまで送って下さってありがとうございました


最大クラスの長文記事を最後までご覧頂き、ありがとうございました


目と体を休めて下さい

この記事へのコメント

  • 凡稔

    アルクノさんのお人柄が分かる丁寧な説明です。「稚児ケ墓山」には哀しい歴史が秘められているのですね。秀吉の弟の秀長は名佐役として有名ですが、戦国の時代にあっては鬼のような一面もあったわけですね。信長の延暦寺そのものの焼き討ちは無かったと見直されているのですか。その頃はとにかく信長にとっては延暦寺の力(僧兵)が邪魔だったには違いないと思いますね。
    余談ですが、「丹生」という地名には興味あります。全国には「水銀」にまつわる地名として丹生がありますが、私の名字に中には「にゅう・・」という部分があります。ただし漢字の「丹生」は使わず「入・・」を使用しています。従ってペンネームで「丹生・・」を使ったりしていました。
    アルクノさんのブログを拝見していると勉強になります。
    2014年10月28日 09:36
  • yoppy702

    昨年のリベンジの無事終了、おめでとうございます。
    今回の前置きは、特に、力が入ってますね。
    丹生山については、アルクノさんの記事でご紹介頂いているので馴染みのある名前であり、いつか行ってみたいと思っている所ですが、この解説で、ナルホドと思う箇所多く、益々、行ってみたくなりました。
    ウィキペディアもチェックしてみましたが、文書の構成がアルクノさんの前置きの方が遥かに優れていて、よく理解出来ました。
    さすが、アルクノさんのお庭です。(^^)
    そして、写真。
    ウィキペディアを見る方は、知らない方が多いので、これじゃ問題、大有りですね。
    このウィキペディアの写真は、要訂正ですね。

    コウヤボウキは、ボクも先日見ましたが、目を引く可愛い花ですね。
    高野山で箒の材料にしたと聞いていたので、この花を…と思っていたのですが、使っていたのは茎なんですね。(^^ゞ

    「サンチョウまでサンチョウ」何気なく言ってます。(^^)
    アルクノさん歩く所に駄洒落有り、ですか?

    歴史解説もあり興味津々です。
    信長は比叡山を焼き払ってなかったんですね。
    そして、アルクノさんお得意の、「逆さ落し」。
    これに関係していリーダー格の方とその子孫のお話。
    歴史を知らないと通り過ぎてしまいそうな事も、古に思いを馳せてしまいます。

    読み終わり、大きな仕事をやり終えた充実感で一杯のアルクノさんを思い浮かべました。
    この日のお酒は格別やったのではないでしょうか?
    お疲れ様でした。(^^)
    2014年10月28日 10:12
  • アルクノ

    凡稔さん、ありがとうございます。
    地元なので、ここは知っておかないといけない気持ちと、篠山の方に説明しなければと言う思いもあって、色々詰め込んでみました。
    秀長は終生秀吉を支え続け、秀長あっての秀吉とも言われていますね。
    この焼き討ちは秀吉の命令があっての事ですが、稚児まで葬るとは後々まで禍根を残さない為と言うより、その残虐性を山名と共に残していると思います。
    信長の延暦寺の焼き討ちについては、調査によりその燃えカスの量が極端に少ないそうです。
    当時はブルドーザーで撤去したりできないので^^)?が付いています。
    僧兵が酒と女と金に溺れ、堕落した状態だったので、悪い部分を信長が摘み取ったのだと思います。
    「全山焼き討ち」と誇大広告して、比叡山側が自分達を守ろうとしたのではないのでしょうか。

    凡稔さんはペンネームで「丹生・・」を使っていたのですか。
    「水銀」にまつわる地名に関連して、丹生山の隣にシビレ山があります。
    これは水銀採掘による職業病ではと推察できます。
    歴史は苦手な科目でしたが、地元が歴史の舞台になっていた事を知って興味を持ち、出かけた時には勉強するようになりました。
    2014年10月28日 11:39
  • アルクノ

    yoppyさん、長文を隅々まで読んで頂きありがとうございます。
    前置きに半分位の精力を注ぎ込みました^^)
    過去ログに色々書いているので、それも参考資料にしました^^)
    何度も歩いていて案内しやすいし、歴史にも触れる事ができるのでこの山にしました。
    yoppyさんには丹生山だけでは物足りないと思うので、シビレ山とくっ付けるか、帝釈山~稚児ヶ墓山と縦走するのがお勧めです。
    藍那駅から藍那古道~丹生山~帝釈山~稚児ヶ墓山~花折山~大池駅のフルコースは、六甲縦走ハーフをこなした方の次のターゲットになります
    ウィキペディアで知る方は多いのでこの写真は差し替えて欲しいですね。
    コウヤボウキの茎を集めて箒を作った事は山歩きで知りましたが、そんなことして絶滅危惧種にならないのかと思いましたよ^^)
    「サンチョウまでサンチョウ」は皆さんお疲れの様だったので、息抜きにと思いました。
    力が抜けてしまったかもですが^^)

    「信長は比叡山を焼き払ってなかった」については、凡稔さんのコメ返に書いているのでそちらもご覧ください。
    信長の名誉回復の為に助力を惜しまないようにしたいです
    鵯越の逆落としについては(須磨一の谷の説もあるが)、これほど華々しく歴史に登場し、大成果を挙げた戦いは他に無いでしょう。
    地元民として知っておかないと、と思います。
    鷲尾家が転居した理由は分りませんが、立派なお墓を見ると、現在も名士であることが窺えますね。

    文末に労って頂き、痛み入ります。
    ハイ、無事案内し終えてホッとしましたし、が旨かったです。
    2014年10月28日 13:25
  • てくてく

    篠山自然の会の皆さんの、丹生山ご案内、そこそこのお天気で、無事終了されて良かったですね。

    丹生山と周辺の歴史・地質などなど、詳細なご説明凄いです。
    篠山自然の会の皆さんも、これを読めば他の説明必要なし。

    鷲尾邸跡の石灯籠、台座に、邸内の石灯篭なら有る筈のない、世話人庄?衛門・八十雄衛門・市兵衛などが刻まれているので、或いは邸内の物ではないのでは・・・と思っていました。
    他所から移設したんですね。スッキリしました。

    ご案内の大役、お疲れ様でした。
    ささやかですが・・・
                           てくてく
    2014年10月28日 19:20
  • アルクノ

    ここは、てくてくさまのお庭ですね。
    アルクノも回数を重ねて登っているので代理で案内しました
    調べるのは学生の時から得意だったので、その点で頑張ってみました

    何時もお世話になっている「篠山自然の会」なので、
    この記事だけで大体の事が分かる様にしようと思い、
    こんな長文になってしまいましたがお役に立てたでしょうか。

    この灯篭、他所から移設したのではと推察していたのですね。
    流石です

    ビールに酒他色々、有り難く頂戴します
    2014年10月28日 19:55
  • ケン

    懐かしい道を思い出しました。
    膝が良くなったら、久しぶりに藍那古道を歩こうかと思います。
    2014年10月28日 20:45
  • アルクノ

    ケンさん、早速見て頂いて有難うございます。
    私もケンさんと一緒に藍那古道を歩いた事を思い出します。
    藍那ではビール瓶の籠を椅子にして宴会、
    とても懐かしいです。
    その時はご一緒したいので、是非お知らせ下さい。
    2014年10月28日 21:17

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篠山自然の会で、六甲山歩き(2017.11.26・日)
Excerpt: 「篠山自然の会」としての例会で、20名の参加がありました。
Weblog: アルクノのブログ
Tracked: 2017-12-02 16:03