兵庫区歴史さんぽ道シリーズ④大輪田泊(2011.11.08)

神鉄スタッフと「ひょうご観光ボランティア」さんの案内による兵庫区歴史探訪です。
副題には「清盛の日宋貿易の港を訪ねて」とあります。
前回のシリーズ③はこちらをご覧ください。
https://arukuno.seesaa.net/article/201110article_5.html

まず、頂いた地図と説明文のあるパンフレットから大輪田泊について勉強しましょう。
コラムにはこう書いてあります(以下、私が分かり易く要約しました)。

清盛と大輪田泊(おおわだのとまり)について
平清盛は武士の第一人者になった頃、平治元年(1159)から応保2年(1162)にかけて大輪田の地に進出したと考えられている。
摂津国を領有する権利を得て八部郡(やたべぐん)を支配し、出家した翌年の嘉応元年(1169)までには福原に居を構えていた。
清盛が京を離れて福原に転居した狙いは、南に国家的良港の大輪田泊があり、ここを拠点に宋(中国)との貿易を進めようと考えていたからです。
当時外国船の応対は博多で行われていたが、嘉応2年(1170)9月には宋船が大輪田泊に来航している。
以後宋との本格的な交渉が行われ、承安3年頃大輪田泊の改修にも着手する。
そして、清盛は港を守る為、波よけと風よけに人工島の教ヶ島を築く。
工事が難航したので教文を書き記した石を沈めて、工事が進められたとされています。

輪田(和田)京計画について
治承4年(1180)6月~11月にかけて清盛の孫に当たる安徳幼帝が福原に滞在していたことを「福原遷都」とされていますが、実は都としての実態があったわけではなく、清盛自らの地位を高めるための策略で全ては計画倒れに終わりました。
当初遷都の計画は、輪田の地を目論んでいた。
その治承4年に調査すると、右京は土地が不足し左京は平地がないという状態で、調査期間6日で早くも却下されています。
その後、現在の伊丹市や加古川から明石市にかけての台地も提唱するがいずれも却下。
清盛は仕方なく、「福原、暫く皇居となすべし。道路を開通し、宅地を人々にたまうべし。」という方針を打ち出す。
頓挫してしまった輪田京ですが、兵庫区から長田区の南部一帯をと考えていたようです。
しかしそれでは狭すぎるので、福原を都の中心として大輪田泊を含む形で構想していたのではないかと言う説もあります。
更にこのような話も記述しています。
嘉応2年(1170)に後白河法皇が来航した宋船に乗船していた中国人と対面しました。
そのことを知った九条実篤は「天魔の所為か」と腰を抜かさんばかりに驚いた事を日記「玉葉」に記しています。
外国人が頻繁にやってくる貿易港に都を構築するなど当時の公家達には想定外で、とても考えられないことでした。
京の都は海無しで、常に周りが守ってくれると思っていましたからね。

教ヶ島について
工事を進める人口島だが、暴風雨によって崩され度々中断する。
人柱を立てようとする意見に対して、清盛は人の命をそのように粗末にするものではないと教文を記した石を沈めることを提唱します。
平家物語では度々悪役を演じる清盛君ですが、この「築島」の章段では人命を重んじていて尚且つ合理的な姿が描かれています。
一方、その逆の人柱伝説もある。
築いた石が流されたため、清盛は旅人30名を捉えて人柱にしようとする。
その最後に捉えられたのが国春という修業者。
生き別れになっていた娘の名月女と兵庫で再開しており、その娘が父の身代わりを申し出る。
更にそのことを知った清盛の従者の17才の少年、松王丸が30名全員の身代わりにと申し出る。
清盛がそれを許し、法華経と共に松王丸が海底に沈んだのち教ヶ島は完成する。
というもの。
農村歌舞伎のストーリ-になりそうな設定だが、観光ボランティアさんの説明によると各地に松王丸伝説があるのを例に挙げ、でっち上げと断ずる。
私も当時の脚本家がお涙頂戴話として書き上げたものだと思います。


過去最長の前置きなりましたが、ここからが本編です^^)

湊川駅の北東に向かいますが、清盛が福原京の中心地に考えていたのではないかと云われている荒田八幡宮です。
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境内には「福原遷都八百年記念之碑」がある。
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この地に清盛の弟頼盛の別荘があり、周りからはちょっとした高台で見晴らしも良く、もし湊川が氾濫しても浸水することのない安全な場所でした。

ここからどんどん南へ下がるが、下り過ぎて湊小学校まで来ました。
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直ぐ近くに「横溝正史生誕地の碑」があるのでそこへ向かうのかと思いましたが、道を間違えただけでした^^;
しかし、ダイエー発祥の地もあるので、紹介します。
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国道2号線まで戻り、西へ行くと鎮守稲荷神社です。
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写っているのは高田屋嘉平が献上した灯籠ですが、
一ノ谷合戦の際に生田の森で戦死した清盛の甥、平経俊を供養する五輪塔があります。
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社の中にはビリケンさんも座っています。
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大きな歩道橋を二度も渡って、
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七宮神社に向かいます。
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清盛が教ヶ島を築く際に塩槌山を崩したが、その山に祀られていた神の怒りに触れぬようにとこの七宮神社を建立し、海の安全も祈願したと伝えられています。

次に訪れたのは築島寺(来迎寺)。
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ここに人柱30名の身代わりになったという松王丸の供養塔がある。
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清盛の愛人である妓王(ぎおう)と妓女(ぎじょ)の墓もあるが彼女たちがここを訪れた記述はどこにもなく、これもでっち上げではないかということです。
二宮、三宮という愛人もいたので(羨ましい話ですが)、それと取り違えたのでは?というボランティアさんの説明でした。

中央市場前に向かうが、運河の水門には来年の大河ドラマに登場する清盛を大々的に宣伝しています。
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前回その清盛君が鎮座している入江橋を紹介したが、そこから眺める運河です。
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ここに兵庫城が建っていた。
こんなに広くはなかったがお堀もあったそうです。

有岡城の戦い他の功績があって織田信長により領地を与えられ、摂津国の大守になった池田恒興が兵庫城を築城したが、わずか2年で美濃国大垣城に移封される。
兵庫城下は秀吉の直轄地となり片桐且元が代官として入城した。
城として機能した期間は短かかったが、1789年兵庫城址の陣屋が勤番所に改築された。
その勤番所が初代兵庫県庁となり、伊藤博文が初代知事として赴任した(ウィキペディアより抜粋して要約)。
ということで、ここに兵庫県庁があったわけです。
その伊藤博文が今度は兵庫運河構築に奔走することになる。
後に少し東にある神戸港にバトンタッチするが、清盛の時代の大輪田泊から明治の兵庫港に至るまで相当長い期間、約七百年間はここに大規模な港があったということです。
現在は神戸の中央市場として栄えています。

兵庫大仏のある能福寺にも立ち寄りますが、
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このお寺は平清盛が出家した所とされています。
他にも色々説明があったが、スペースの関係でカット。

その南にある須佐野公園に立ち寄るが、昔ここは入江だったそうで、
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この先は埋め立てて土地を広くしました。
その直ぐ南の真光寺には踊り念仏で有名な一遍上人の廟所でその墓がある。
古い石像もあります。
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真光寺の道路向いにあるのが清盛塚です(清盛の墓ではありませんが)。
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これは神戸大空襲では残ったが、阪神大震災で倒れた。
その結果、先端部分と上から3段目の石は新調しました。
琵琶塚との間に出家した清盛さんが立っています。
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宣伝効果はあるとしても(昭和43年に建てられたので)歴史的には価値のないものです、と説明していました。

このあと藥仙寺に立ち寄るが、これも様々な説明は前回と重複するので省略します。
清盛とのかかわり合いでは、清盛がここに後白河法皇を幽閉したと伝えられています。
後に、源頼朝に平家討伐の密書を託す橋渡しに関係する場所にもなりました。
法皇を幽閉したことで、自らの権勢も衰えていったということでしょうか。

このあと和田神社に向かい、ゴール解散となりました。

この兵庫区歴史さんぽ道シリーズはひとまず終了です。
案内と様々な説明、ありがとうございました。
私も勉強して知識が増えました。

スタッフさんは、「来年この辺りが活況を呈するので(?)、関連してまたこのような企画があるときは宜しくお願いします。」
と言っていました。
私も観光客がどんどん訪れてくれることを願っています。


前回の雪辱を果たすため、ミドリさんと中央市場にある駅前食堂へ・・。
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時間待ちの後、入店するとアリマさんがお食事中でした。
後続の班に入っていたそうですが、私達が湊小学校へ遠回りしている間に追い抜いたのです。
食後、スタッフ6人グループが外でお待ちでしたが、
「お先に~、どうぞお入りくださ~い」と伝えて、
三名が湊川駅に向かいます。
歩いた距離は約10kmでした。


大輪田泊につて追記)
大輪田泊は奈良時代に行基が修築したと伝えられています。
上記入江橋から兵庫城址を眺めている写真があるが、その後ろ側、築島橋の所に古代大輪田泊の港湾設備の基礎になったのでは、という巨石があります。
この巨石は昭和27年の新川運河の浚渫工事の際に出土したが、平成15年の調査ではこの場所から北西約250mの所でも奈良時代後半から平安時代の港湾施設の一部ではないかと推定されるものが発見されています。
勿論埋め立てや修築が繰り返されたので、当時のままのものはどこにもありません。

この記事へのコメント

  • ケン

    なかなか勉強家ですね。
    私は歴史は大の苦手です。今度会った時にでも、ゆっくりと話を聞かせて下さい。
    2011年11月12日 23:02
  • アルクノ

    ケンさん、ありがとうございます。
    私も教室で勉強する歴史は苦手でしたが、その現場で勉強すると興味も湧くし、頭にも入ります。
    続きは今度会ったときに、と言いたいですが、これ以上の知識はもう出てきませんよ
    2011年11月13日 00:12
  • yoppy702

    学校で習う歴史よりも、ずっと興味深い内容でした。ありがとうございます。
    ビリケンさん…通天閣独特のものと思ってましたが、そうではなかったんですね。
    2011年11月13日 01:45
  • アルクノ

    yoppyさん、気持ち玉もありがとうございます。
    分かり易く書いたことで、楽しめて頂けたようですね。
    ビリケンさんは他のも入れて神戸に3ヶ所あるように言ってました。何れ紹介できるかもしれません。
    2011年11月13日 09:16
  • てくてく

    近代的な都市の中にも、古い歴史に彩られた史蹟があるのですね。参考にして、又、歩いてみたいと想います。
    てくてく
    2011年11月14日 19:25
  • アルクノ

    てくてくさま、気持ち玉もありがとうございます。
    是非訪れてみて下さい。
    来年は大混雑かもしれませんので^^)
    兵庫区役所で地図と説明書付きのものが頂けますよ。
    2011年11月14日 19:43

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