サブタイトルには、兵(つわもの)達の足跡を訪ねてとあります。
兵庫七福神巡り(2010.05.25)←シリーズ①
https://arukuno.seesaa.net/article/201005article_4.html
兵庫区歴史さんぽ道シリーズ② 福原京(2010.08.24)
https://arukuno.seesaa.net/article/201008article_11.html
に続いて、このシリーズ③は久し振りのアップになります。
他には「大輪田泊~清盛の日宋貿易の港を訪ねて」もあるようですが、これらのコースの見所や説明を書き加えた地図は兵庫区役所で頂けるようです。
まず始めに、ここ兵庫は京都と西国を結ぶ出入り口であった為に度々戦火にまみれています。
京へ攻めあがる軍勢とそれを防ぐ軍勢の衝突があり、その逆もありました。
鎌倉幕府の滅亡から南北朝内乱にかけてのことです。
そこで、楠木正成と神戸の関係、鎌倉幕府滅亡後の建武政権の中心であった後醍醐天皇と地域の関係などを訪ね歩きます。
神鉄ハイキングスタッフによる案内と地域で選任されたボランティアさんの説明による、兵庫区の歴史探訪ウォーキングです。
兵庫区の辺りはかつての摂津国の要の地ですが、現在も歴史の香りが数多く残っておりそれらがぎっしり詰まった町といっていいでしょう。
兎に角、神社やお寺に史跡がいたるところにあります。
幼少の頃よりこの地で育った私は、町には必ず神社やお寺があるものと勘違いしていました。
時は流れ、20年ほど前に神戸市北区に造成された住宅地に移住しましたが。
今日のコースはタイトルとは異なりますが、兵庫の礎を築いたと言ってもいい平清盛ゆかりの地も巡ります。
来年の大河ドラマではそれらが紹介されて、多くの人で賑わうことでしょう。
現在は比較的閑散としているので狙い目かもしれません。
そのコースは、神鉄・湊川駅~湊川神社~福海寺~福厳寺~清盛くん~阿弥陀寺~清盛塚~薬仙寺~和田神社~市営地下鉄・和田岬駅です。
頂いた地図にあるコースの楠木正成本陣の碑は距離が長くなるとして訪れませんでした。
コース距離は約7kmですが、私は更に新開地まで歩いて昼食休憩後湊川駅まで戻ったので約11km。
コース中最適の昼食場所は他にありますが、以下の本文で紹介します。
またしても長い前置きになりましたが、ここからスタートします^^)
湊川駅で下車し地上に出て階段上がると湊川公園です。
既に大勢の方が集合していて、スタッフによる説明です(9:46)。
本日の参加人数は120名ほどですが、私は単独参加です。
今日頂いたものですが、
八つ折りになっていて倍の倍の倍に広げると、地図や説明書きがあります。
地図はクリックして拡大するかプリントアウトして御覧下さい。
この公園はかつて湊川が流れていたところを埋め立てたものですが、その下を掘って幹線道路を通しているので現在はトンネルの上に乗っかっている形になっています。
ここには大正13年から当時日本一の高さを誇る神戸タワー(高さ90m)がありました。
老朽化のため昭和43年に解体されたが、現在はその場所に時計塔が建っています。
その公園の北の端にあるのが、楠木正成公の銅像ですが、
恐れを知らぬ鳩さん達の休憩場所になっています。
楠公さんは、うっとうしいと思ってか兜を目深に被っています^^)
そのバックに建っているのが兵庫区役所です。
踵を返して公園を南へ向かい、100年ほど前に湊川を埋め立ててできた新開地商店街をゾロゾロと下る。
開店前のパチンコ屋の前に立ち並ぶ人を横目に見ながら(9:57)。
「東の浅草、西の新開地」と言われた当時の面影は消え、寂しさが漂う通りとなっています。
多聞通りに出て信号を渡ると更に商店街は続いているが、私達は通りを東(左)へ向かう。
すると左側に現代風鳥居のようなものが建つ。
福原桜筋や、
FUKUHARA柳筋。
ここはかつて「東の吉原、西の福原」と呼ばれた処です。
殿方のPlay Townで夜の歓楽街として栄えましたが、近年は朝から営業していようです。
廃れることが無いのはあっちの方ということでしょうか。
信号を何度も渡って、湊川神社に到着です(10:10)。
位置的にはJR神戸駅の北西にあって、駅から徒歩1~2分でしょう。
この湊川神社は初代兵庫県知事伊藤博文が創建に尽力し明治5年(1872)に建てられました。
祀っているのは神様ではなく楠木正成(大楠公)とその子正行(まさつらで小楠公)です。
大楠公600年祭の時に建立されたそうです。
土地は地域の方による提供で、当時より「なんこうさん」として近隣の方に親しまれ続けています。
境内に入ると、楠木正成の一生を纏めた大きなパネルがあります。
過去のものですが、この本文の右に並ぶアルバム「大楠公御一代記」には各項ごとに撮影していますので、興味のある方は拡大して御覧下さい。
僅か700騎で足利尊氏・直義兄弟の大群に挑んだとありますが、実際は朝廷に申し出た京都での包囲作戦を公家達に拒否されて仕方なく戦ったということだそうです。
朝廷に見捨てられた為に敗れて自害したのに、明治に入ってから美談としてもてはやすようになったのは国の勝手な戦略でしょう。
昭和に入って、出征する兵士にはここに立ち寄らせ、天皇の為に戦うこととして洗脳させました。
哀れを誘う楠木正成ですが、その実態をガイドさんから聞きました。
それは正々堂々と戦わず、悪党といわれるような戦法だったようです。
上記アルバムには優秀な作戦と示されていますが、石や材木を落とすゲリラ作戦に奇襲作戦、立場が悪くなると己だけさっさと逃げる。
映画の悪役にピッタシですね。
僅か70騎で平家の大軍に襲い掛かり、勝利を収めた義経とはどえらい違いです。
境内にある水戸光圀の直筆を石に彫って墓碑にした「嗚呼忠臣楠子之墓」と本殿西側奥の自害の場にある墓碑はともに国の重要文化財史跡に指定されています。
境内に多く植えられている楠ですが、
本殿にお参りしたのち、
境内を出て新開地へ戻ります。
ガイドさんに従って再度信号を何度も渡りますが、地下道を歩けばもっと早く進むことが出来ます。
多聞通りにくっつけて大開通りが続いているが、兵庫区のシンボルNTTの電波塔を眺めて進む。
一つ南の道路を行けば直接福海寺に向かうが、この片側5車線の西へ行く大通りを歩いてもらう為だと思います。
大開通五丁目交差点から南(左)へ下るとJRの高架があり、潜ると左に福海寺がある。
釈迦如来を本尊とする禅宗南禅寺派の寺院です。
足利尊氏の命により建武年中(1334~35)に開いたとある。
元はJR兵庫駅の西辺りにあったが、嘉吉の乱(1441~45)で消失し、この位置に移りました。
大黒天を祀るようになったのは現代に入ってからのことです。
その道路向かいには蛭子神社があり、十日えびすに合わせて毎年1月9日~11日は「大黒祭」が催されます。
ここからスタートする兵庫七福神巡りは何時から始まったのか知りませんが、各地にある七福神巡りは江戸時代に庶民の間でブームになったそうです。
ここ兵庫は古くから港で栄えたので、神様も多く集まったという触れ込みです。
ここからは上記地図を参照してください。
直ぐの門口公園北にある福厳寺です。
内部は公開しておらず、外から眺めるだけです。
ここも福海寺と同じ釈迦如来を本尊とする禅宗南禅寺派の寺院です。
元弘3年(1333)後醍醐天皇が隠岐から京へ戻る途中、この寺に立ち寄って行在所とした。
ただこの辺りの水が悪い為に、このあと訪れる薬仙寺の井戸水を献上した。
以前はその名ではなかったが、天皇から賜ったことにより薬仙寺になったとか。
ただ当時は会下山の麓にあったとも言われています。
南へ下って国道2号線を渡り、進むと右手に能福寺があり日本三大仏の兵庫大仏がある。
チラ見して、
その南を左に行くと兵庫運河の新川運河がある。
その入江橋に座っているのが清盛くん。
その清盛くんについては此方に詳しく書かれています。
クリックすると見やすくなります。
直ぐの中央市場前駅から南(右)へ向かう。
その道路向かいに新しいビルがあるが、2階に「駅前」とあるのがお勧めの昼食場所です。
五百円で海鮮丼、千円も出すと豪華海鮮丼が頂けます。
右側には食堂と集合住宅が並んでいたが老朽化により取り壊されました。
それで連絡道がこのような形で残っています。
振り返って神戸市の台所、神戸市中央卸売市場本場です。
中之島バス停のある交差点を右に行くと阿弥陀寺がある(12:04)。
その名の通り阿弥陀如来を本尊とする浄土寺の寺院です。
戦災で変形した大きな石だが、足利尊氏が自害した楠木正成の首改めをしたと伝えられています。
これは明石の語源となる赤石とも言われている。
再度運河を渡るが、新川運河との間に癒し系キャラのハートン君が微笑む水門がある。
その先に琵琶塚と
清盛塚があります。
興味のある方は此方を拡大させて御覧下さい。
この清盛像は昭和43年に建てられたものです。
(清盛くんや阿弥陀寺に立ち寄らない場合は、能福寺を南へ450m行った所にあります。)
直ぐ南の兵庫運河を渡るがその橋には「きよもりはし」と書かれています。
渡ると直ぐ薬仙寺がある。
歴史の勉強でしょうか、生徒達が先生の話しを聞いていました。
名前のいわれは先ほど述べたが、これがその後醍醐天皇に献上した水を汲み取った井戸です。
天平18年(746)行基が開いたとされる古い寺院です。
元は天台宗だったが、延文元年(1356)当時の住職が念仏修行に訪れていた時宗の国阿の門弟になり、改宗した。
本尊の薬師如来坐像は国指定の重要文化財だが公開されていません。
この踊り念仏は庶民の芸能にも発展したしたそうです。
名前が残されているのは寄付金を積んだ有力町人やその夫人達で、庶民の中でもお金持ちだったそう。
ここに神戸大空襲犠牲者慰霊碑がある。
約1万人が炎に焼かれる悲惨な大空襲だったが、遺族から寄せられた浄財によって建立された。
そのデザインは焦熱地獄と平和の風を象徴しているそうです。
地図のルートとは少し異なるが、兵庫県立工業高校の裏から運河沿いにある絵画パネルを眺めながら歩いたのち、南へ向かう。
地図のゴールは和田岬駅になっているが、その近くの和田神社でお開きになりました(12:55)。
ここでの説明は無かったが、海の守り神として崇められている和田神社です。
兵庫津の道の説明によると、
承安3年(1173)平清盛が安芸の宮島より市杵嶋姫大神(いちきしまひめのおおかみ)を勧請し、
万治元年(1658)には武庫川の氾濫により岡田宮のご神体が和田岬に漂着したことから大社殿を造営したとある。
更に音楽の神様、弁才天が祀られています。
そしてこれが本殿です。
弁当持参の方は境内で食事です。
私は手ぶらなので、先ほど紹介した「駅前」に向かいますが、スタッフ集団も其方へ向かっています。
1時を過ぎているとは言えこの集団が入ると満席になるので、スタッフに譲って私は新開地へ(13:36)。
「駅前」から徒歩15分ほどです。
日本蕎麦をそば焼きに使うトシヤです。
何時もは単品ですが、おなかもへったしビールを頂きながら定食にしました。
単品だと500円ですがすじ肉が入ると550円。
更に定食は200円のアップです。
見た目は真っ黒で美しいとは言えませんが^^:食べると美味しい^^)
今回はルート通りに歩かなくてもいいです。
兵庫区役所でシリーズとなっている地図を頂き、興味の湧きそうなところを散策されはと思います。
和田岬駅からはハーバーランドや三ノ宮駅も近いので便利です。
車が要りますが、中央卸売市場では一般の方も箱買いであればできます。
この記事へのコメント
yoppy702
全く知りませんでした。(^^ゞ
②の福原京というのがあったというも。
地図を拡大し、この記事を読ませて頂いているだけで、この地を歩いた気分です。
清盛君というのが有るほど密接なんですね。
アルクノ
私も神社やお寺が沢山あるということは子供の頃から知っていましたが、このような史実を知るようになったのは最近のことです。。
地元に根ざした歴史の勉強をすると、
頭に沁み込みます^^)
福原京は半年ほどのことで、都としての実態は無かったようです。
しかしその史跡は沢山残っているので、訪ねてみると面白いと思いますよ。
兵庫区民に愛される清盛君ですね。
てくてく
兵庫の街中に、こんなに沢山の史蹟があるとはも知りませんでした。
機会がありましたら、歩いてみたいと思います。
てくてく
アルクノ
本文は、頂いた地図にある説明からの転用、ガイドさんの説明、私の知っていいる事、それらを合わせてごった煮状態になりました
てくてくさまなら、シリーズを束ねて1日で巡ることもできると思います。
是非、兵庫歴史巡りを堪能してください。
うらしまおばさん
私も早く『サンデー毎日』になりたいです。
これからもよろしくお願いします。
アルクノ
『サンデー毎日』になると自由が増える反面、何をしようかとなりますので、その準備は早い方がいいですよ。
またお時間あるときにお立ち寄り下さい。
KURI
それにしても楠公の銅像は躍動感があってかっこいいですね!
アルクノ
お互い歴史ある土地に生まれましたね。
足利尊氏は直ぐ楠木正成を全滅させることが出来たが、どのような戦術を使うのか見る為、今後の参考として泳がせていたそうです。
それでも楠公さんは今でも市民に親しまれています。
この銅像は現代に入ってからのものなので、かっこいいですね。
スタッフM
ぜひ、兵庫区の歴史ボランティアになって私達のサポートをしていただきたい思いです。
こちらも、勉強していこうと思いました。
アルクノ
気持ち玉も頂いたのでしょうか、ありがとうございます。
歴史ボランティアなんてとても無理です。
このブログで後方支援をして、神鉄さんのサポートをしていきたいと思います。
木曜ハイクはマンネリの方向へ進みつつありますので、コース開拓を宜しくお願いします