三木の歴史を訪ね歩くコース(2011.05.05)

三木市共催で第2回みっきぃハイキングとありますが、主催は神鉄で距離は約4kmの街中ウォーキングです。
そのコースは神鉄・恵比須駅(10:00集合)~湯の山街道(武者行列)~三木城址~旧玉置邸~旧小河家別邸~三木駅で、三木市ガイドボランティアさんの説明を聞きながらの歴史探訪となります。

参加人数はかなり多くて数百人規模でしょうか、4グループ位に別れ私達は最終グループで出発します。
駅に到着した時、既に先頭グループがスタートしていたので参加人数も良く分かりません。
頂いた地図にはボランティアによる案内は「先着100名様まで」とあり、この地図も急遽コピーしたようで歩きながら頂きましたが、それでも足らないようでした。
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私達グループは何時ものモクさと久し振りのミドリさん。

昨年10月21日に「湯の山街道」で紹介した逆コースを歩きますが、
https://arukuno.seesaa.net/article/201010article_8.html
ボランティアさんの説明で新たに知ったことなどを加えて紹介していきます。

恵比須駅前には湯の山街道と書かれた看板があり、地図とその説明があります(10:02)。
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地図にある旧玉置邸から湯の山街道の赤いラインと別れ、南にある旧小河家別邸に向かいます。

しかし、このような団体さんなのでボランティアさんの説明を聞くのもなかなか大変でした。
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服部病院の前の信号を渡って北へ向かい、「ゆと」とある和風食堂から西(左)へ細い道に入る。
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直ぐ戎神社があるが、その前にある看板で今日お供するボランティアさんによる説明です。
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三木から東へ赤いラインの湯の山街道ですが、分岐から北東へボランティアさんの指し示す淡河道があり、その先で有馬温泉(当時の湯の山)に繋がっている。
その指の下にあるのは私が普段良く歩く山田の里に横たわる山田道です。
(地図には無いが)その山田道から北の淡河に通ずるのが志久道ということになります。
その拳から北は東條、西は姫路で、手で隠れている南は明石ということになり、ここ三木は交通の要衝であったことが分かります。

この湯の山街道は参勤交代に使われた道でもあり、お殿様を上から見下ろしてはいけないとして2階の屋根は低くなっています。
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しかし当時のまま維持するのは困難で、間もなく改修されることになるのは残念なことです。
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これは上に2階があるのではなく、倉庫であったときの空気抜きだそうです。
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直ぐ近くに美嚢川が流れており、物資はその川で運んできて、このような倉庫で保存していたのです。

古いものを大事にする三木の風土がこのポスターにも現れています。
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何時までも大事に保存して欲しいと思います。

ギャラリー湯の山みちの2階には世界中から集められた珍しい化石が展示されていますが、
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ここのオーナーさん、三木の歴史にも精通している方で、以前にも色々お話を伺いました。
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これは近辺の湯の山街道の詳細図ですが、細かく調べ上げていることが伺えます。
街道筋は鍵型に曲っているところがいくつもあります。
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これは敵の襲来を想定して突き当たりとなる手前で道を細くし、馬が一頭ずつ侵入してくるところを脇から迎え撃つ、という戦略だそうです。
この道がその一つですが、現在は車が曲れるようにと拡幅されています。
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これがアパートであることは以前にも触れたが、
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2階の角に小さな壁があります。
是が「うだつ」で、隣家からの火の粉の進入を防ぐ為の防火壁です。
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横光と屋号を書いて店のしるしにも使っていたようですね。
うだつがあがらないとは、このような防火壁を立てることも出来ない、自分の家や家族も守ることが出来ない情けない人ということです。
本来既婚者に対して使われていたが、転じて、進歩が無く伸びない人という意味になっています。
「何時まで経っても、うだつがあがらんな」と言われないように精進しましょう。


ハートマークがあるお洒落な灯篭です。
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秀吉の趣味が今も三木市民に残っているのでしょうか、周りには茶器をあしらっています。

苔生(こけむ)したる古城ではありませんが、草生したる城壁の上はお墓になっているようです。
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この周りには何の説明も無いが、このような城壁が街道筋に残されています。

そこを下ると、ただ一軒残る造り酒屋がある。
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アルコール度数が19度と高い生原酒を試飲しますが、まろやかなお味でした。
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持ち歩く負担を考え、購入を断念したのは残念な思いでした^^;

角に立つ蔵は芝町の太鼓屋台を収める屋台蔵で、祭りに使うその屋台を保管するところ。
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これも造り酒屋の風貌をそのまま残しているが、裏へ廻ると食堂になっているそうな。
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この屋根はお金持ちでないと作れないそうで、ドーム状にカーブしています。

本長寺と三木義民の墓ですが、物語のようなお話はクリックし、拡大してお読み下さい。
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三木は別所の時代から税を免除されていたそうですが、江戸幕府から年貢を徴収する(1677年の延宝検地)との知らせが来ます。
そこで、今までと違うとして三木の二人が、打ち首覚悟で異議申し立てに江戸へと向かう訳です。
税を免除するとの古文書が見つかったので持参しますが、あっさり認められ、その内の一人である大西与三右衛門が三木義民としてここに祀られています。
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勿論、現在の三木市民は国税も地方税もきちんと納めているそうですので、誤解の無いようにお願いします^^)

三木上の丸駅西から高架を潜り、今はシャッター通りとなっているナメラ商店街に入る。
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嘗てはバスがここを走っていて、そのときは繁盛していたとか。
直ぐ稲荷神社へと向かう階段があり、その下でボランティアさんの説明です。
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ここに三木藩家臣の屋敷があり、町割遺構とあるが「当時のイメージ(想像)」にあるような石が塀の下に置かれていたようです。
その石ですが掘り出された当時は「滑」らかな石で、それがある「原」ということで滑原(なめら)と名付けられました。
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この稲荷神社へ上がる階段は急ということで、少し奥にある「ナメラ」かな坂を上がると^^;
三木城址がある。
ライオンズ倶楽部が三木市に寄贈した別所長治の石像ですが、
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当時の馬は時代劇によく出てくるサラブレッドのようなスマートなものではなく、このようにずんぐりむっくりタイプでした。
一段高いところにある長治公辞世の碑ですが、
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「法界寺の絵説き」でも紹介した「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば 」です。
「別所公春まつり」イベントも終わったようで、片付けていました。
その傍らには別所家一族の辞世もあります。
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これは合戦の絵図の裏にあった秀吉方の武将配置図です(後ろが狭く、一部写せなかった)。
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よく分かる配置図ですが、3万5千の兵がこのように取り囲んだのです。
三木城の鬼門の方角に平井山があり、そこに秀吉が陣を構えたのは竹中半兵衛の頭の良い所だとの説明でした。
(写っていませんが)対面にある反対側には寝返った同門の別所一派が陣取っています。
長治は自害する以外に道はなかったのでしょう。
その説明はありませんでしたが、期間の長い1年8ヶ月に及ぶ兵糧攻めにしたのは皆殺しにしてこの先領民になる城下の反感を受けたくない、という思いがあったのではと推察します。
竹中半兵衛が陣取った場所には病で倒れた彼の墓もあり、今も三木の人によって守られています。
三木の君主を倒した敵の参謀を祀るなど、常識ではありえないことです。
彼の戦略が優れていたこと、更に人望も厚かったことが伺えます。


子供の日ということで、三木城址では元気な男の子達による相撲大会が実施されていました。
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八百長の無い、ガチンコ相撲は見ていて気持ちが良かったです。
これは予選で、その後の決勝トーナメントは時間の関係で観戦できませんでした。

そのとき、武者行列が彼らにとってゴールの三木城址に上がってきました。
先に出発したグループは湯の山街道で出会ったのでしょうが、私達はここで来るのを待っていたわけです。
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昔はもっと若武者に相応しい人が演じていたと思いますが、時代の流れということで・・。
しかし集まったのは、老若男女。
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長治公石像の前で記念撮影ですが、前と後ろの方には外国の方も居てグローバルな展開になっています。
これも時代の流れでしょうか。

納まっていた蔵から出してきたのでしょう、見事な太鼓屋台を眺めて城址を後にします。
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直ぐ近くの三木図書館に置かれている備前焼大甕ですが、
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三木図書館と美術館の建設に当たり周囲を調査した所、この大甕が14個出土した。
16世紀に作られたもので、三木城の食糧備蓄の為に使われていたのであろうと図書館裏に書かれていました。

暫らく歩いて、「別所公一族会総会会場」と立て看板のあった雲龍寺奥の長治公首塚に立ち寄り、
旧玉置邸に向かう。
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この建物は1826年財政建て直しを図る為切手会所(今の銀行)として建てられたのを始まりとしています。
玉置家住居となったのは明治8年(1875年)のことで、以後建築された離れ座敷や渡り廊下には当時の匠技が施されています。
と案内パンフに書いてあった。
先行していたグループが入るようなので、私達グループは裏へ廻る。

初めて拝見してニヤリとしてしまったが、ここの玉置さん、かなりユーモアのセンスがあった方のようです。
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蔵ですが、右奥には更に輪をかけてこのように。
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「ひょっとこ」でしょうか^^)
NHKさんも取材と撮影に来たそうです。
だらだら歩きで、疲れていた膝も笑いそうになります。
ここまでの長文をお読み頂いた方はお疲れ様でした。
ここで珈琲ブレイクにしてもいいですが、あとちょっとで終わります。


当時のままの、かまどを眺め、
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勝海舟の書を見て表へ出ようとすると、
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まだ時間があるとのことで再度中へ入ります。
これは渡り廊下で一見水平のように見えるが、実は右下がりになっていています。
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この屋根の上の、更に奥にある蔵の屋根が水平で、手前の屋根は右下がりということになります。
そこで! 
この障子も地震で傾いたように微妙にひし形となっており、当時の建具技術の粋が込められています。
今も狂いが無く、微妙に斜めになったままスムースに動くそうです!!


最後の旧小河家別邸に向かうが、途中喫茶店の角にこのような石柱がある。
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右が西の姫路で、左が南の明石となっています。
交通の要衝であった三木は、四方より入りやすいので秀吉に味方する援軍に取り囲まれてしまいました。
という皮肉な結果になりました。

旧小河家別邸の見事な日本庭園を眺めて、帰路につく。
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ボランティアさんの案内もここまで(12:41)。
長い時間、どうもありがとうございました。

私達は食事もまだ、ということで、
大宮八幡宮近くのお好み焼き「美樹」へ・・。
店内で待っていると、「法界寺の絵説き」でご一緒したTさんが入って来て、楽しい食事となりました。
別グループで廻ったようですが離れていたので分かりませんでした。

駄文に最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。

この記事へのコメント

  • 風子

    みっきぃハイキングなんてあるんですね
    大勢参加されているようで・・
    時たま車で走るだけの三木で寂れた田舎町くらいな感想しかないですが、こうやってブログ記事になると三木の町も史跡あり何ありで、なかなか素敵なところに思えてくるのが不思議ですねo(^▽^)o
    旧玉置邸ってユニークです。。ここならTV取材もくるでしょう・・私もまた場所を調べて行ってみたいです・・勿論車ですが・・o(^▽^)o
    2011年05月07日 14:05
  • アルクノ

    風子さん、ナイス玉もありがとうございます。
    この辺りを歩くと、標識や案内看板などが沢山あるので自然と歴史の勉強になります。
    旧玉置邸は案内パンフレットには旧玉置家住宅とあります。
    場所は三木市観光協会の直ぐ近くで、駐車場もその観光協会近辺にあります。
    大宮八幡宮鳥居の前にあるお好み焼き「美樹」はお勧めですよ
    2011年05月07日 14:45

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旧小河家別邸に炉が設置 お披露目茶会も
Excerpt: 国登録有形文化財の旧小河家別邸(兵庫県三木市本町3)の離れ座敷に、新たに茶道用の炉が設けられた。24日には炉のお披露目を兼ねた茶会が開かれ、訪れた人たちは、市茶道協会によるお手前などを楽しんだ。
Weblog: ローカルニュースの旅
Tracked: 2013-03-28 08:37