https://arukuno.seesaa.net/article/201009article_8.html
(13:53)藍那小学校前を過ぎ(藍那駅からスタートすればここまで10分)、
神鉄の高架を潜り、
左に曲ると直ぐ右側に登り道があり、
県道を潜るトンネルがある。
そのままどんどん上ると、
突き当たり。
その左、星和台のほうへ進むと道標は無いが地蔵のある相談ヶ辻に出る。
ここで義経は本体と別働隊に分け、別働隊は右の白川へ、義経本体は左へ進む。
現在、国営明石海峡公園神戸地区の建設造園中で、新築のかやぶき屋根の民家がある。
そこから直ぐの、この掲示板のあるところから、
分岐を右に折れ、
直ぐ左に向かう。
緩やかな坂を登ると、
星和台の住宅地。
そのまま住宅地道路を下ると、前方に電波塔の立つ高尾山が見えてくる。
義経はこの山を目指したのである。
夕刻この山に登って、平家の陣容をその灯りで確認したかったのでしょう。
この住宅地を向かって右方向へ進み、その端から出ると、このような光景。
直ぐ右側がしあわせの村入り口ですが、
その前の信号を渡って、鵯越墓園へと向かう(14:41)。
通常は閉じられているが、このときは彼岸の期間中なので北門が開いており、墓参や通り抜けで行く車もあるので注意したい。
センターラインが黄色の西側メイン道路を登る。
ピークを過ぎて下ると、義経馬つなぎの松の表示がある。
枯れて切られたその松と説明看板。
5分ほど登って、
高尾山頂に立ち、義経は眼下の福原本陣を眺める。
平家の大軍は塩屋のあたりまで広がっていた(15:15に下山)。
義経は馬つなぎの松辺りで軍の主要メンバーを集めて作戦を練り、翌朝攻撃を仕掛けることに決める。
翌朝、なだらかな鵯越の坂を七十騎が下る。
鵯越墓園出口辺りまで来ると平家軍は目の前だが、少し距離がある。
ここで私が義経御一行様にアドバイス。
神鉄・鵯越駅まで下るのです。
ここで、とりあえずビール^^)(16:04~16:16)。
この商店の前をそのまま下ると地蔵前広場に出て、Uターンするような形でひよどり道に入ることができます(16:29)。
義経道と言ってもいいような古道の雰囲気。
ここまで途中に階段があって馬には気の毒だが、
滝山町に下る。
転落防止のフェンスが張ってあるが、ここが梅村伸雄氏の説では逆落しの場所としている処で、
西神戸自動車道のトンネルの直ぐ上(現在地とある)。
向こう側に歩道があり、下る。
トンネルの上のこんな場所を馬が下ったのでしょうか。
確かに平家軍はこの下まで陣を張っていたはず。
コンビニの前辺りにたむろしていた平家軍は、背後から来た源氏の精鋭部隊に驚いて、旗を投げ捨て逃げ惑ったことでしょう。
しかし、危険を冒してまでこんなトンネルの上からの急坂を下るでしょうか。
失敗は許されない戦いで、最後に無謀なことを義経がするでしょうか。
私だったら前夜のうちに工作班を出し、雑木を切って今あるようななだらかな道を作り、お膳立てをしておきますが。
このなだらかな道でも木立の間から怒涛のごとく一気に駆け抜ければ、敵は突然の襲来に崖から駆け下りて来たと錯覚するでしょう。
合戦当時、デジタル・ビデオカメラでもあれば、平家軍撮影班の子孫が保存するその証拠が残っていたかも知れませんね。
私は合戦場を離れ、滝山町バス停から右の神鉄・丸山駅に向かいます。
丸山駅到着は17:17。
今回は丹生山から義経道の下りが滑りやすく注意が必要ですが、距離が約23kmと長いだけで初心者向けコースです。
義経気分が味わえることは私が保証しますので、歴史に興味のあるウォーキングマニアの方々は是非挑戦してみて下さい。
藍那小学校を中間点としているので、神鉄・藍那駅で区切って前半・後半と2日に分けて辿ることもできます。
また、義経は京都から宝塚・三田・有馬(湯山)方面から来て鵯越或いは須磨一の谷に向かったという説もあり、ロマンは広がるところです。
この記事へのコメント
遊子
と、アルクノさんの書かれたように、そんな危険を冒してまで?、、と、思いますね
でも、昔の人達の体力・(現在人から思う)無謀さは計り知れないものがありますもんね
真実はどうなんでしょう??
だから、「歴史=ロマン」なんでしょうね
写真「トンネルの上のこんな場所を」これはGOOD!です、‘百聞は一見にしかず‘ですね
アルクノ
鵯越駅前でビールも頂いたので、なだらかなほうを下りました。
冗談はさておいて、逆落しの方が義経の価値は上がるしロマンも広がりますね。
しかし実際にその場所を眺めると、こんな所を!?
と思ってしまいます。